ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『レトロチカ』は凄いゲームかもしれない(ネタバレなし)

 

2022年5月に発売された『春ゆきてレトロチカ』。プレイ開始当初は正直「これはキツいかもしれない」と思った。明確に悪い意味で。しかし、第1章が終わり、その後、数十分の展開を経たところで、印象はガラリと変わった。ここでは、終章までクリアして感じた『春ゆきてレトロチカ』というゲームに感じた特有の良さについて書いてみたい。

クリア後(終章後)の感想と推理パートの難点

ゲーム全般の印象として、序盤の気持ちの盛り上がりから比べると、ラストはゆったりと比較的平凡に終わった印象がある。もちろんラストの伏線回収はとても面白かったが、傑作というには物足りなさも感じる。その点は多くの人の感想と同じであろうと思う。

ゲームとしてのメインである推理パートのUIや操作性の悪さが世評においても度々批判されている。そうした批判が生まれる大きな要因は、推理パートのテンポの悪さにあるだろう。「①仮説構築」→「②まとめ」→「③解決」の3段階で推理パートは進むのだが、①ではほとんどプレイヤーによる知的な作業が必要とされない。その割にはここの作業に掛かる時間が妙に長い。最悪、言葉の意味を考えたりせず、マークを見て合致するものを選ぶだけの作業で良かったりするので余計に作業的になる。また、分かりにくいのが「②まとめ」で、私は3章くらいまで、この「②まとめ」の作業にどういう意味があるのか分からなかった。

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気に入らなければ何度もやり直せる「②まとめ」。実は真相に近い「まとめ」をすると、如水が「いい推理だ」と褒めてくれる。そこでこれまでの自分の推理の正しさを少しだけ確認することができる。*1   ただ、クリアした人の中にはいまだにあの「②まとめ」が挿入される意義が掴めなかった人もいるのではないかと思う。

この「②まとめ」は、ゲーム展開やクリア後評価にほぼ影響がない。ただこのくだりを実装したかった製作者側の気持ちというのは勝手な想像ながら分からなくもないと感じたし、実はこのゲームのキモはこの「まとめ」にあるように思う。この点は後で述べる話にも関わってくる。

実質的に推理力や想像力など知的な作業が問われるのは「思考空間」を抜け出ていわゆる解決編にあたる③の「解決」の部分のみで、ここは推理ゲームによくある「正解をいくつかの選択肢から選んでいく遊び」になっている。ただその選択肢が多いので、ある程度真相が分かってないとゲームの後半戦は多少何度かやり直すことになるかもしれない。もちろん何度でもやり直すことはできるので、本気で詰まることはないだろう(一部、パズルが苦手な人だとハマってしまう箇所はあったかもしれないが)。

総じて推理パートはあまりゲームとして洗練されておらずかなり作業的であり、しかも実写ドラマパートのテンポの良さもあり、余計に推理パートに厳しい評価がなされるだろうと思う。

 

実写映像作品としての淡白さと、それゆえの良さ

本作の魅力は実写ドラマの小気味良さにある。矢継ぎ早に展開していくこともさることながら、あまりくだくだしいフレイバー的な話に時間を割かない。本作が素晴らしいのは、変な言い方になるが、実写パートがドラマとして優れているとか、人間ドラマとして魅力があるとか、そういうところでは「ない」点だ。

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上記の写真のようなシーンを見ると特に思うが、『春ゆきてレトロチカ』は、なんというかNHK教育で深夜10時くらいからやっている歴史再現ドラマのような印象がある。どこか安っぽい上に、淡白でもある。しかしだからと言って、決していい加減に作っているのではなく、なんだかよく分からない生真面目さがある。それはTips(解説)や年表なんかにも現れており、例えば「(新)本格」を謳うミステリーとして、エラリー・クイーンの名前が出てくるのはまだ分かるが、ヴァン・ダインをわざわざ書いたりするようなところでも感じる(ここまで来たら綾辻行人なども書いて良いよう気がするけど、それは避けたのだろう。分からなくはない)。真面目なんだけど、垢抜けない。このどうしようもないほどのNHKぽさというのは、日本産のゲームならではだなと強く感じる(今のNHKというよりも少し前のNHK的と言った方が正確かもしれないが)。

こう言ってしまうと悪口のように聞こえるかもしれないが、私の言いたいことはちょっと違う。ゲームとドラマとミステリを合体させた時に、これはこれで妙に高い完成度で融合していることは間違いない。例えば、極限まで言葉を少なくしてドラマを作ろうとする本作の姿勢には、どこか職人的なこだわりを感じる。

特に本作の監督(伊東幸一郎氏)の過去作である『TRICK×LOGIC(トリックロジック)』を思い起こすと、本当はもっと大量のテキストを提示して、歯応えのある推理ゲームを提供したかったのではないかとも邪推してしまう。あの六角形のタイル(へクス)を敷き詰める謎の推理パートが製作当初から想定していた理想的な遊びだったとは思えない。様々な妥協と英断の積み重ねによって、歪ながら今の形に落ち着いたのだろうと想像する。もちろん実写ドラマのパートにもそうした逡巡はあったのだろうが、複雑な話を比較的スッキリと理解してもらいつつ、緻密な伏線回収を味わってもらうという製作意図が比較的素直に達成されているように思う(推理パートに比べて)。以下に、この辺りを踏まえて、この作品の素晴らしさとその独自性について感じたところを書いてみたい。

これまでのミステリ作品と比較しての本作特有の良さ

本格ミステリーを実写化して、映画やドラマとして楽しませるためには、おそらく映画やドラマのセオリーや手法によって洗練させていくしかない。最近であれば2019年の『ナイブズアウト/名探偵と刃の館の秘密』などは、そういう点で優れた作品だったろう。しかし、これはあくまで映画として優れていたのであり、本格ミステリとして優れていたから傑作になったわけではないだろう(もちろんその面でも面白味はあったが)。では、もう少しプレイヤーが能動的に楽しむゲーム的な推理行為に重点を置いた作品を作るとしたら、どうあるべきなのだろう?ビデオゲームという媒体はそれに適した媒体に思えるが、これがなかなか難しい。過去から様々な名作推理ゲームは生まれているものの、どうもチグハグになってしまうところがある。物語が優れていれば作品としても素晴らしいものになるのは当然だが、素晴らしい物語であることがかえってゲームとしての推理要素を余計なストレスにしてしまうことはある。いっそのこと推理パートが、ストーリーとは全く別のパズルゲームの遊びであったりする方が(レイトン教授シリーズのように)ゲーム作品としてはスマートなものになるかもしれない。ビデオゲームにおける推理ゲームというジャンルは、そうした物語とゲームの両立という普遍的な苦闘の歴史である。その中で『春ゆきてレトロチカ』が特に優れていると思うのは、「とりあえず一旦考えて推理をしてみよう」と、プレイヤーに事件の真相を考えさせる行為をゲーム体験の中心に置けたところにある。ミステリの中心地である推理小説でも意外にそれは難しい。世のミステリ好きと言われる人で、解決編の前で一旦読書をやめて、本気に、真面目に、真相究明のための思考を巡らせている人がどれだけいるだろう。ミステリを多読しているような人ほど、さっさと解決編に読み進むのではないだろうか。映画やドラマであればなおさらで、一時停止をして推理してみるなんて人はほとんどいないだろう。そこでビデオゲームの登場とあいなるわけだが、これまた意外に真相を考えるための時間をプレイヤーに取らせることは難しい。先程も言った通り、皮肉なことに物語の求心力が強ければ強いほど、先を読みたくなる欲求は高まり、ゲームであっても、本気で考えて謎を解いたりせず、ただ正解の選択肢を探って、総当たりの単なる作業になってしまうことはよくある。ゲームであれば、プレイヤーの進行を、映画やドラマや小説と違って、作者側が任意に止めることができる。こうした「推理をさせる」ことに都合のいい特性を持つビデオゲームだが、プレイヤーに理想的な「推理をさせる」という体験を与えるのは結構難しい。なぜ、読者(観客、プレイヤー)は、意外に「推理してみよう」と思わないのか?読者は本当は推理を楽しみたいのではなく、トリックや謎によって、ただ意外性や素晴らしいアイデアの巧みさを味わいたいだけなのかもしれない。もちろんそうした理由もあるだろうが、私が考える大きな理由の一つが「考えてもどうせ分からないだろう」という予見にあるのではないかと思っている。特に優れたミステリであればあるほどそうだ。優れたトリックを私が分かるわけはない。というか分かったらそれは大したトリックではないのではないか。そんなことを考えて、もしくは、あえて考えることを放棄して、解決編に臨む人も多いのではないか。『春ゆきてレトロチカ』が凄いのは、正にこの予見に屈することなく「考えてみるか」と思わせるところだ。人は投げるのに高すぎるゴールポストを見ても、そこにボールを投げようとは思わない。「ちゃんと考えたら、もしかしたら私にも謎が解けるんじゃないか」そういう期待があるからこそ、プレイヤーは推理してみようと思う。しかも、物語を先に進めるには、総当たりをするよりも、少し考えて正解を導いた方が早いかもしれないとも思わせる。こう思わせるのは、単に謎を比較的簡単なものにすれば良いというわけではない。ほとんど作業的な「仮説構築」によって、適度なヒントが与えられている点が大きい。これも単にヒントと言わず、「仮説」と言っているのも些細な点だが良い方向に働いている。気づいていなかったことがヒントとして単に与えられるのではなく、プレイヤー自身の行為によって導かれた仮説だという建前を示す。そして「ここまでガイドされてるんだから、ラストワンマイルくらいは自分で考えてみるか」と思わせる。このラストワンマイルへとプレイヤーを導くことに、『春ゆきてレトロチカ』は全力を捧げている。これも想像だが、開発途中の「仮説構築」のくだりはもっと難しかったかもしれない。

  • 「仮説構築」をほぼ作業と言える簡単さにまで落としたこと
  • 実写パートの人間ドラマを深く掘り下げないこと
  • 「まとめ」と称して1点に絞って振り返りをさせること
  • セリフを切り詰め推理にとってのノイズを減らしたこと
  • 大量の仮説を提示して推理のための部品だけは提示するところ
  • 仮説の中には明らかに間違いと分かるものを混ぜているところ

これら全ては、最後のゴールテープを切るところだけは全力疾走してみませんか?という誘いに満ちているのだ。ミステリに慣れた人にとっては薄味だろうし、実写ドラマとしての見応えというのもそこまでではない。しかし、人に「推理してみよう」の気持ちを刺激するために多くの努力が向けられている点については、こだわりの作品と言えるのではないかと思う。

変な言い方だが、本作はビデオゲームだからこそできた一つのミステリ体験の提示のあり方だろう。『春ゆきてレトロチカ』は、これまでプレイヤーまかせになっていた「推理してみる気持ち」を、ささやかな工夫の積み重ねによって追求し、「推理」を製作者の占有物でなく、丁寧にプレイヤーの手元に返すことができた稀有な作品であるように思う。

唯一、文句をつけるとすれば、『春ゆきてレトロチカ』という、川村元気の偽物が突如降臨して、20分くらいで付けていったようなタイトルはどうなんだろうな笑、と思う。これもまたおそらく気の遠くなるような長く多くの会議の果てに、最終的にこうなったんだろうが、隠しきれないクソゲー臭を放っているようにも思わなくはないので、なんとももったいないような気がする。しかしまあ、えてして作品を作るというのはそういう不条理との闘いなのだろうとも思う。

 

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【プレイ開始直後(1章クリア直後)の感想】

備忘として置いておきます。

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はっきり言って勇み足の可能性も高いが、これは凄い作品なのかもしれない。テキストアドベンチャーゲームの歴史の中で特別な作品になるかもしれない。いや言い過ぎか。分からない。ただ、ゲームのフィクションが独特の世界であること、リアルとは違う少しだけ奇妙な世界を作ってきたこと、薬を飲むと体力が一瞬で回復したり、面識のない町の人にいきなり話しかけたり、とにかくそういうメカニクスからくるお約束との妥協によって生まれた変なフィクション世界を、どういうリアリズムとして描くのかということを、腕力と勇気と信念によって成立させてしまった奇跡的な作品になるのではないかと思っている。

自分でも何を言っているのかちょっとよく分からないのだが、これはミステリ(推理小説)の世界が奇妙な館を建てたり、死体を奇妙に切り刻んでみたり、ミステリは科学と論理によって物語を紡ごうとしているはずなのに、かえって逆に非現実的に世界を描いてしまっているという昔からの問題に対し、真正面からぶつかり合っていく気概を『レトロチカ』からは(今のところ)感じている。例えば『逆転裁判』であれば、頭でっかちで滑稽で、いわゆるミステリ的なトリックであっても、アニメ的で非現実的なノリによって、その世界に馴染んでしまう(霊媒師がいる世界でなら、密室殺人はそれほど奇妙な現実ではなくなる)。そういう端正で作品として華麗にまとめ上げるのではなく、実写ドラマというごまかしの効きにくい表現方法を採用し、かつ、そこから一切逃げることをせずに、めちゃくちゃ非現実的な世界やキャラ造形やセリフを、ゲーム的なUIによってもはや強引に実写のままに軟着陸させてしまう。そういう、すごい作品かもしれない。クリアした結果として、どういう評価になるかは現時点で全く分からない。期待しすぎだったと終わるかもしれない。しかし、今はその奇跡を信じたい気持ちになっている。『レトロチカ』は(テキスト)アドベンチャーゲームにおける必須教養になるかもしれない。UIや操作性がひどい?それはそうかもそれないが、そんなことは瑣末な問題に過ぎないかもしれないと言っている。ちなみにクリアして、別に大した作品ではなかった場合、この記事には一言、「勘違いだった」と追記したいと思う。

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*1:私としては、この「②まとめ」の作業の意義は2点だ。一つは、解決編で本格的な推理ゲームに突入する前に「お試しでコアな真相について考えさせるきっかけになっている」ということ、そしてもう一つは「仮に真相のコアから遠いところにいれば、もう一度考え直してみて」と促しているということ。分かりにくいのは、まとめが1つしかできないという点だ。なぜひとつだけまとめさせるのか、それは製作者にとっては自明だろうが(一つ一つのエピソードは小さいため、まとめは一回で充分というような発想なのだろう)、意図自体がそのように些細なものだと分かりにくいのが良くない。このように私としては解釈しているが、他の解釈などもあれば是非教えてほしい。

『Switch スポーツ』は既存のオンライン対戦ゲームの脱落者にこそ響く

2022年4月に発売された『Nintendo Switch Sports(以下、Switch スポーツ)』をゴールデンウィークに家族で楽しんだ。

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Wiiスポーツ』の不思議な魅力

『Switch スポーツ』は、かつて『WiiスポーツWii Sports)』(2006)を夢中で遊んだことを思い出す楽しさだ。当時、Wiiというハードと一緒にリリースされた『Wiiスポーツ』には革新性を強く感じ、Wiiというハード自体にも感動したものだった。もちろん2006年当時でもWiiリモコンが決して高度な検知ができるデバイスでないことはなんとなく感じていた。そして後に、Wiiモーションプラスが発売されたことを考えると、実際、Wiiリモコンでできることは少なかったのだろう。しかし、だからこそ、『Wiiスポーツ』の楽しさにはどこか魔法が掛かっているような蠱惑的な魅力があった。「なぜこんな稚拙なセンシングでこんなにも楽しい遊びが実現できているのか?!」という驚き。それは余計に『Wiiスポーツ』という作品の神秘性を高め、人を「信者」にしかねないような魅力になっていたと言える。

とはいえ『Wiiスポーツ』は、ずっと長く遊び続けられるような作品ではなかった。しかし、当時の重厚長大で金を掛けたゲームでは創出できなかった独特の価値を提供していたことは間違いないし、時代の谷間のような偶然的な要素にも助けられたのかもしれないが、唯一無二のビデオゲーム作品であったとは言えるだろう。

ほぼオンライン専用ゲームとして生まれ変わった『Switch スポーツ』

では2022年に復活した『Nintendo Switch Sports』はどうなのだろうか。本作の特徴は、オフラインの場合、多くの要素がほとんど利用できないという点にある。もちろん6種類の競技は全て遊ぶことはできるが、オフラインだと経験値ポイントやアイテムなど、ゲーム内で蓄積できる要素はほぼ利用できない。オフラインでは一人で黙々と攻略できる要素がほとんどないのだ。CPU戦は3種類の難易度しか用意されておらず、しかもCPU戦の戦績は一切記録としても、ポイントとしても残らない。『世界のアソビ大全51』(2020)もかなりスッキリとした作りだったが、まだ各難易度でCPU戦に勝利した記録や最高得点はマイレコードとして残った。しかし『Switch スポーツ』では一切オフライン戦の記録は残らない。

一方、オンラインで遊ぶには、本体4300円にプラスして月額306円(年額2400円)のニンテンドースイッチオンラインというサービスに加入するしかない。家族で複数人で遊ぶ場合はファミリープラン(年額4500円)に入った方がいいだろう*1。そんなわけで、『お試しモード』があるとは言え、このゲームを家族で楽しむためには9000円近い出費が生じる場合がある。もちろん元々ニンテンドースイッチオンラインのサービスに加入していた人であれば良いのだろうが、ライトユーザーでこのソフトを買ってしまった人の中には「え!そうなの?」という思いを抱いた人も少なからずいるだろう。

以上の問題点があるとは言え、私自身は『Switch スポーツ』は素晴らしい作品だと思っている。カジュアルなユーザがオンライン対戦に何を求め、何を求めていないかを実によく分かっている。私はインターネットでのオンライン対戦をあまり好まない。しかしそんな私だからこそ、このゲームのシステムというのはしっくり来ると感じた。それは一言で言うと「最初の数回のプレイの心地良さ」だろう。その点を以下に本作の具体的な仕様と共に述べてみたい。

試合形式を選ぶ必要がない

『Switch スポーツ』では、6種類の競技が選択できるが、その試合形式などはほぼ選択することはできない。例えばテニスであれば、オフラインでは何ゲーム先取するマッチか1〜3の中から選択できるが、オンライン対戦は1ゲームマッチに固定されている*2。その他の競技でも全て試合形式は固定されている。唯一、チャンバラだけは自分の使うカタナを3種類から選べるが、これは試合形式を選ぶものとは少し違うだろう。いずれにしろ、競技を選んだら後は待つだけで試合は開始される。

f:id:tuquoi:20220509231149j:image↑上記画面はテニスが選択された状態。この次の確認画面で「さがす」を押せば試合が始まる

オンライン対戦のゲームでいつも私が少し面倒だと感じるのは、その試合形式や対戦設定を選ぶところだ。何を選択したらいいのか、それはやってみないと分からない。一度でもやればもちろん分かるのかもしれないが、その最初の一回が億劫なのだ。なるべくマッチング時間が短くてすむ試合形式はなんだろう?とか、面白いマップはどこなんだろう?とか、初心者が始めるのに適した設定はなんだろう?とか、そういう事を考えるのが面倒なのだ。それは、私がオンライン対戦を始める動機が、なんとなく人と対戦してみたいというとてもフワッとしたものだからだろう。そういうユーザーにとっては、他ゲームでよく見られるオンライン対戦に入るまでの流れはやや重く、最初の対戦設定の時点で疎外感を感じてしまう。だからこそ、『Switch スポーツ』のいきなり試合が始まる仕組みは大変ありがたい*3。競技種目だけは選ぶ必要があるが、それはどんなにこのゲームに対して無知であっても選ぶことはできる。ボーリングやテニスという種目を知らない人はいない。競技種目さえ選べば自然と「こう言う感じでいいんだよ」という試合がすぐに開始される。この気軽さが嬉しい。*4

上記のような「気軽に試合を始めたい」という課題が既存のゲームで全く意識されていないとは思わない。例えば「クイックマッチ」のような仕組みが導入されているオンライン対戦ゲームも多い。しかし、「クイックマッチ」は気軽に遊べると言っても、むしろあらゆるタイプの試合形式に慣れた人が時折気まぐれで選ぶ選択肢のように思える。右も左も分からない新規参入者が「クイックマッチ」という選択肢を見て、それをいきなり選びたいとは感じないだろう。つまり『Switch スポーツ』が追求する気軽さというのは、ゲームに慣れた人にとっての気軽さではなく、このゲームを初めて触る人やまだ慣れていない人に絞ったものだと考えられる。*5

ランクマッチ戦がデフォルト

オンライン対戦がメインのコンテンツである『Switch スポーツ』では、「プロリーグ」と呼ばれるランクマッチ戦が実装されている。先ほどの「クイックマッチ」を選択しにくいという話とも少し似ているのだが、オンライン対戦が苦手な人や慣れていない人にとって「ランクマッチ」を選択するのは少々気が重い。ガチの人たちが多そう、とか、ダメとか良いとか評価されるのがシンドイ、などと考え過ぎて、つい「カジュアルマッチ」を選んでしまう。

しかし『Switch スポーツ』では「プロリーグ(ランクマッチ戦)」は、ある程度の試合回数をこなして、勝利回数をあげることで強制的に参加させられる*6。最初はカジュアルマッチしかできないが、「プロ認定」という通知が出た後は、その競技については次の対戦から自動的に「プロリーグ(ランクマッチ戦)」になる。

f:id:tuquoi:20220509232003j:image↑プロ認定の画面。勝利を重ねると突然この通知が出る。次の対戦から自動的にランクマッチ戦となる

ただ、オプションのユーザー設定から「プロをお休み」を選択できるため、どうしてもランクマッチ戦が嫌であれば変更することはできる。しかしカジュアルなプレイヤーであればあるほどユーザー設定をわざわざ開いて、その設定を変更することは少ないかもしれない。

「カジュアルマッチ」から「ランクマッチ」への流れというのはおそらくどんなオンライン対戦ゲームでも想定されていることだろうが、ここまで半ば強制的にランクマッチ戦を遊ばせるというのは一見「初心者に気軽」という観点とは反しているようにも思える*7。しかし、この「プロ認定」という褒め言葉と共に強制させる仕組みによって、比較的カジュアルなプレイヤーもまたランクマッチ戦の母集団として数多く参入するだろう。この仕様がどれだけ有効なのかは、もう少し時間が経たないと分からないが、『スプラトゥーン』で「ガチマッチ(ランクマッチ)」を遊ばなかったような人でも、『Switch スポーツ』ではランクマッチ戦を遊んでいるかもしれないと考えると、私などはとても心強く感じる。オンライン対戦が苦手な人がそれでもオンライン対戦をしてみたいと思うのは、色んな人と熱い戦いをしたいというよりも、みんながわちゃわちゃしている祭りの会場に行きたいという感覚に近い。だからこそ、スキルより以前に「カジュアル」か「ガチ」かの選択によって、プレイヤーが分断されるのはどこか窮屈さを感じさせる。ほぼ全員がとりあえずランクマッチ戦に放り込まれるというのは、むしろ清々しい感じさえあり、「ランクマッチ戦」を選んだという自己責任からの解放がある。ランクマッチ戦で負けた時に「ほら、負けた。でも、それはお前がランクマッチ戦を選んだからじゃん」という心の声を聞く必要がないという楽さがある。

そして、先にも言ったが、カジュアルなプレイヤーは設定などいじらないというそのカジュアルさが、かえって良い具合に非カジュアルな試合環境(ランクマッチ戦)の土壌になっている点はとても面白い。

アバターで選べる部品が少ない

この点は果たして意図的なのかよく分からない。単に開発上の都合なのかもしれない。いずれにしろ『Switch スポーツ』では、初期段階でアバターに使える髪型や衣装の数が異様に少ない。

f:id:tuquoi:20220509232219j:image↑初期の髪型は全部でたったの6種類。男女分けなどもないので、これで全部

もちろんオンライン対戦の、特に基本プレイ無料のゲームでは選べる種類が少ないのはよくあることだが、その場合でも課金などによって衣装ぐらいは追加で買えるパターンが多い。しかし、少なくとも2022年5月時点で、『Switch スポーツ』では課金によって髪型や衣装やスタンプは、一切追加で購入できない。結果として、オンライン対戦をしていると自分と全く似た容姿のアバターを頻繁に目にすることになる。この体験が逆に「新しい髪型や衣装を手に入れたら身につけてみよう」という動機になっているのかもしれないが、なかなか思い切った作りだ。ただ、これも試合開始までの時間をできる限り短くするという目的に対しては理にかなっているとも言える。そして、Miiとは違う専用アバターを今回新規に導入したことも、その意味で理解できる。というのもニンテンドースイッチというハードになってユーザーの大部分がMiiを作成しているはずだという前提は採用できないからだ。とすると、改めてMiiを作り直させるにはあまりに時間が掛かる。アバターの導入と選べる部品の少なさは、結果として初めてプレイする人が試合開始までに掛かる時間を短縮させている。現代的なキュートさを持つ専用アバターの導入は、もしかしたらMiiでは今や古臭さを感じさせてしまう問題を解決することが主眼だったのかもしれない。しかし、それ以外に「初めての人がすぐに遊べる」を追求した結果であるのかもしれない。

初回プレイやカジュアルなプレイヤーに寄り添う難しさ

以上に見てきたように、『Switch スポーツ』は単に気軽にオンライン対戦ができるというわけではなく、むしろ今まであまりオンライン対戦を熱心にやってこなかったような人に対して、実に心地よい作りになっているところに特色がある。正直に言えば、こうした試みがこれまでのオンラインゲームで試行検討されなかったとは思わないし、上記に挙げた各種取り組みも、とりわけ特殊なものだとは思わない。なによりオンライン対戦を熱心にやらない人にいくら寄り添っても、結局のところ、彼らは継続的にオンライン対戦しないのではないか?と感じる。それは自分自身の内面を振り返ってみてもそうだ。じゃあ、任天堂の狙いはなんなんのだろうか。それはもちろん想像するしかないが、ひとつだけ思うところがある。それは「初めて楽しかったあのオンライン対戦」という経験の楔を打ち込むことではないだろうか。おそらくどんな形態かは分からないがゲームの世界がネットワークで繋がり続けることは、これからもずっと続くだろう。その中で「初めて楽しかったあのオンライン対戦の経験」に『Switch スポーツ』はなり得る。幼少期の子供まで含んだ広い世代に対してそうだ。これは決して数ヶ月、数年プレイし続けるという継続性がなくてもそうなりえる。あの時、あの一瞬、あのリビングで、家族と、友人と、楽しくプレイしたオンライン対戦。『Switch スポーツ』は既存のオンライン対戦ゲームでは脱落してしまったけど、このジャンルで「初めての楽しい体験」を獲得する人を多く産み出すかもしれない。

桃鉄』を何ヶ月も継続して遊び続けた人はそんなにいないが、『桃鉄』で遊んだあの日のことをずっと記憶し続けている人は多い。だからこそ毎回似たゲームでありながら、つい買ってしまう。『スマブラ』などもそうだろう。別に格闘ゲーマーのように継続的にプレイしているわけではないのに、『スマブラ』は買ってしまう。それは人生のどこかで強烈な楔を打ち込まれたからだ。しかし『桃鉄』も『スマブラ』もその楔となったのは、おそらくオフラインでの現実的な空間での体験だろう。そうした『桃鉄』のようなカジュアルなゲーマーにも訴えるポジションにくるオンライン対戦ゲームというのはあるだろうか。

細かい話にも思えるが例えば気軽なオンラインゲームの代表作とも言える『Fall Guys』にはローカルの2人が一緒にオンライン対戦に(画面分割などで)臨むことはできない。しかし『Switch スポーツ』はそれが可能だ*8。また直近の前作である『Wiiスポーツクラブ』や他のゲームではもっと豊かなコミュニケーションやメッセージのやりとりができたのに『Switch スポーツ』ではスタンプによる曖昧なやりとりでしかコミュニケーションはできない。しかしその方がかえってオンライン対戦で嫌な思いもしないし、逆にその分からなさが微笑ましいことも多いかもしれない。細かい仕様に至るまで『Switch スポーツ』は「初めて楽しかったあのオンライン対戦」というポジションに入ることを狙っているように思える。子供も遊ぶオンライン対戦ゲームとしては、『スプラトゥーン』や『フォートナイト』や『マイクラ』のマルチ対戦や『Roblox』といった名だたるゲーム(プラットフォーム)が既に存在しているが、そうした場所からこぼれ落ちて入り込めなかった子供たちも多いのではないだろうか。オンライン対戦ゲームはビジネス的にもいかに継続させるかという目的に沿ったゲームデザインになりがちだろう。しかしそういう指向のゲームから脱落した人たちの受け皿になったとき、長く継続的に遊ばせるのとは別の形で強烈な記憶を、オンライン対戦の原初記憶として『Switch スポーツ』は残せる可能性がある。

おそらく10数年後にまた『Switch スポーツ』のリブート作品が生まれるだろう。その時まで『Switch スポーツ』を継続的に遊んでいる人はきっといない。しかし、10数年前に打ち込まれたその楔ゆえにまたそこに帰りたいと思う人は多くいることだろう。

*1:これらのオンラインサービスの値段は2022年5月時点のもの。またここで挙げた本体ソフト価格はダウンロード版の価格である。

*2:1ゲームマッチ固定なのは、Wii Uで発売された前作『Wii Sports Club』(2013)でも既に同様であった

*3:試合形式が選べないことを強く印象づけるのはボウリングだろう。レーンの途中に壁があるような変則レーンがいきなり出てくることがある。こういう障害物ありレーンを遊びたくない人もいるだろうが、お構いなしに出てくる。普通であれば変則レーンの有無ぐらいは選べそうだが、『Switch スポーツ』のオンライン対戦では選べない。なおオフラインでは選べる。

*4:なお、直近の前作である『Wiiスポーツ クラブ』では、「みんなと対戦」以外に「クラブで対戦」というものがあった。これは都道府県別に分けられたクラブ内での対戦ができるモードだ。世界ではなく、できる限り小集団で対戦できる仕組みを入れようという試みだったが、Wii Uという本体の不振もあり、成功だったのか不成功だったのかもよく分からない。ただ、『Switch スポーツ』では「クラブで対戦」のような仕組みを廃し、選択肢を少なくしたことは、すぐに始められることをより目指したのだと考えてもいいかもしれない。

*5:また細かい話だが、前作『Wiiスポーツ クラブ』では、ローカル対戦かネット対戦かの選択は、各競技を選んだ後に選択していた。しかし『Switch スポーツ』ではトップ画面でそれを事前に選び、各競技の選択後には選ぶ必要がない。なお人数選択も同様で最初に選ばせ、競技種目の選択後には選ばなくても良いようになっている。細かい調整だが、こうした点にも「気軽に早く試合開始」を実現する強い意志を感じる。

*6:プロリーグに誘われる条件は明確になっていないが、5〜8勝くらいで発生するイベントのようだ。連勝すると発生が早いのかもしれない。

*7:もしかしたら、最近はこのシステムがオンライン対戦ゲームの世界では普通になっているのかもしれない。分かる人がいたら、教えてください。

*8:ローカルの2人が一緒になってオンラインに参加できるのは、テニスやボーリングなど種目は限られる

『ダークソウル』はゲームにおけるパターナリズムへの華麗なカウンターである

本稿に素晴らしい編集を施していただいた記事が、『週末批評』という批評サイトに載っています。ぜひそちらを読んでいただければと思います。

『ダークソウル』はなぜ「不親切」なのか?──パターナリズムにあらがう「私の物語」の復興 | 週末批評

週末批評 | ごくごくインディーな文化批評サイト

------元の記事は以下になります------

2022年2月に『エルデンリング』がリリースされた。このタイミングで改めて、2010年代で最も影響のあった(と言ってもいいだろう)ゲームである『ダークソウル』について考えたい。ただ『ダークソウル』という個別の作品にだけこだわりたいのではない。『デモンズソウル』から始まるいわゆるソウルシリーズについて考えたい。これらの作品は世界中で賞賛され、多くのゲームに影響を与えている。2021年11月には、イギリスで開催された「ゴールデン・ジョイスティック賞」においてオールタイムベストとも言える「Ultimate Game of All Time」を『ダークソウル』が獲得した。「ゴールデン・ジョイスティック賞」は1983年に創設されたゲーム業界の中でも老舗の賞イベントである。

Dark Souls crowned Ultimate Game of All Time at Golden Joystick Awards | GamesRadar+

しかし、正直言うと、よく分からないところもある。というのも、『ダークソウル』には多くの欠点があるようにも見えるからだ。特に発売初期にはゲーム後半のダンジョンには多くの批判もあり、またそれ以前にかなり高い難易度は、人によっては容易に欠点となるだろう。こんなにも欠点が愛されたゲームは他にないかもしれない。それら欠点は『ダークソウル』の話になると、愛嬌であったり、誘惑であったり、長所として語られてしまう。こうした疑問を踏まえ、本稿では「単に難しくて達成感があるゲームとソウルシリーズは一体何が違うのか?」を示したいと思う。

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↑『デモンズソウル』2009年2月。ソウルシリーズの歴史はここから始まった(画像はリメイクのPS5版)

『ダークソウル』はプレイヤーを「信頼」しているのか?

まずは、『ダークソウル』に代表されるソウルシリーズに対して語られた言説を見てみよう。以下にリンクを貼る記事は、2018年にKotakuというゲームメディアに掲載されたゲーム開発者たちのインタビュー記事だ。

What Game Designers Love (And Don’t Love) About Souls Games*1

記事タイトル訳『ゲームデザイナーはソウルシリーズの何を愛している(もしくは、愛していない)のか?』

記事内容はインディゲームなどの開発者たちにソウルシリーズの魅力や欠点を語ってもらうというもの。開発者たちの指摘は、なるほどと思うことも多い。その中の1つの言葉を引用してみよう。

ソウルシリーズのゲームは、時に、プレイヤーに対する無関心や無視と思われるものによって称賛されている。

こう語るのは、グレッグ・カサヴィン(Greg Kasavin)である。Supergiant Gamesの脚本家・ディレクターであり、『バスティオン(Bastion)』『トランジスター(Transistor)』『ハデス(Hades)』を作った開発者の言葉だ。彼は、次のように続けて言う。

私がソウルシリーズのゲームを愛する主な理由は、私への信頼の大きさなんだ。会う人みんなも同じくらい私を信頼してくれていたらいいのに。

ソウルシリーズには、こうしたプレイヤーへの信頼という話題がたびたび出る。最近掲載された以下の日本語記事でも同じように「プレイヤーを信頼している」ということが語られる。(太字は筆者)

『エルデンリング』の発売が待ちきれないので「ソウルライク」の面白さを考えてみた

それでもなぜ、フロム・ソフトウェアが難易度調整要素すら搭載せずにこのようなゲームをプレイヤーに突きつけてくるのかといえば、それはプレイヤーというものを信頼しているからではないかと思う。そしてそんなフロム・ソフトウェアをプレイヤーもまた信頼しているから何度投げ出しそうな難易度のボスに直面したとしても、ゲームをそう簡単には投げ出さないのではないだろうか。

プレイヤーを置いてけぼりにしかねない難易度を提供した『デモンズソウル』は、「それでも付いてきてくれるはずだ」というプレイヤーへの信頼があるのだという解釈は確かに可能である。しかし一方で、ギブアップしてしまうプレイヤーに対して冷淡で無関心だとも解釈できる。このように、ソウルシリーズを何作もクリアするようなプレイヤーにとっては「信頼」と解釈できるだろうし、一方で、難しさからプレイを途中であきらめてしまった人には「冷淡」として解釈されるという状況がある。これは単に信頼という言葉で済ませられない何かがあると考えるべきではないだろうか。

リアリティとゲーム的都合の良さの対立を超える

2000年代以降、ゲームのグラフィックが高度な表現を可能にすることで、多くのプレイヤーは直感的に、それがビデオゲームのプレイと齟齬をきたすケースがあるのではないかと感じ始めた。「リアルなグラフィックがゲームを面白くするのか?」という議論は、稚拙なことも多いかもしれないが、とても素直な直感でもある。例えば次のように言うとすれば、多くの人が納得できる話でもあるだろう。

リアリティを追求することで、ゲームプレイ上の利便性が損なわれることがある。

逆に、利便性を追求することで、リアリティが損なわれることがある。

『ダークソウル』は3Dアクションであるが、一般的な3Dアクションゲームには搭載されていることが多いマップやミニマップの機能が搭載されていない。こうした点については、上記のようなリアリティと利便性の観点を踏まえると、次のように言える。

マップやミニマップによって常に俯瞰視点で自キャラと周りの環境を把握できることは、当然、「ヒリヒリするような冒険のリアリティ」を損なうことがありうる。しかし、それを多くのプレイヤーは、ゲームであれば生じる避けがたい矛盾であり、それは分かった上で、ゲームデザイン上のバランス感覚を評価する。「リアリティの面では変かもしれないけど、これぐらいの都合の良さは許されるべきだろう」とか。ここで重要なのは、矛盾に気が付きつつも、リアリティと利便性の対立は「どこかでバランスを取るものなんだろう」と考えられている点だ。

しかし、ソウルシリーズのパラダイムシフトは、正にこの対立構造を脱臼させるようなところにある。ソウルシリーズではマップ自体を導入しない*2ことで、リアリティと利便性の間を取るようなバランス取りを全然していないとも言える。これは単にリアリティに極振りしているわけではない。もちろん、単にプレイヤーを「信頼」して、利便性がなくても付いてきてくれるはずだと思っているだけでもない。ソウルシリーズはこれまで他のゲームでなされていたリアリティと利便性のバランスを取るための努力を、一見すると、「放棄」しているように見えるところがある。その「放棄」を限りなくポジティブに言うために「信頼」という言葉が選択されていると私は考える。
マップ機能の例に限らない。例えば初代『ダークソウル』で、最初の拠点から(最も難易度的にノーマルと言える)城下不死街に向かうための階段は、プレイ上のガイドが明らかに不足している。その階段に向かわずに、(序盤には不当に難易度が高い)巨人墓地や小ロンド遺跡に向かってしまったプレイヤーは多いだろう。しかし、こういう「冷淡さ」や「不親切さ」は、ソウルシリーズにおいて独特の持ち味として肯定的に受け取られている。これは単に難しくリアリティのあるゲームを提供しているというだけではない。特徴的なのは、その難しさが一見すると「設計(デザイン)されているように思えない」というところにある。つまりデザイン(意図)の欠如によって、その世界が人工的に作られたものではなく、正真正銘、ありのままに存在しているのかもしれないという感覚を与えている。現実世界の美しい鍾乳洞に「人を美しさで感動させよう」という意図が無く、むしろその意図がないことによって余計に人は感動するという構造に似た感覚を、ソウルシリーズはプレイヤーに感じさせる。もちろん、本当に設計(デザイン)が欠如しているということはない。ソウルシリーズが難しいように見えて、ちゃんとクリアできるようになっているのは明らかに人による巧みな設計(デザイン)の存在を示している。重要なのは「こいつは本物の(意図されていない)難しさなのではないか。マジモンなのではないか?」と不安にさせる点にある。よく「本気で殺しにきている」という褒め言葉が高難易度ゲームに対してなされることがあるが、この褒め言葉にはそういう「作り物や茶番ではない」ことへの賞賛がある。ソウルシリーズの難易度の巧みさはこうした「茶番ぽく感じさせない」ことにあり、これがソウルシリーズを特徴づける魅力の1つではないだろうか。

次にその難しさの「攻略」について考えてみよう。

正攻法とは思えない「拙い」攻略の存在

ソウルシリーズとその他の難しいゲームとでは、一体何が異なるのか。難易度の調整において、ソウルシリーズは絶妙であり、バランスが良いという面は確かにある。しかしここではそういう観点とは少し違う観点から考えてみたい。私はそれが攻略の在り方にあると考える。

ソウルシリーズは難しいゲームであるものの、その攻略においてはややチート(ズル)と言えるような攻略法が数多く存在している(ハメや安全地帯など)。しかしそうしたチート的な攻略を許してくれるような雰囲気がソウルシリーズにはある。その要因の一つに、システムが用意する一部の攻略法に、裏技のような正攻法とは思えないものがある点だ。

デモンズソウル』の序盤に「王の飛竜」という大きなドラゴンの敵が出てくる。倒さなくてもゲーム自体は進めることができるが、倒すこともできる。しかし地上に一切降りてくることはなく、クルクルと同じ場所を旋回している。このドラゴンは、おあつらえ向きに存在している近くの塔の上からチマチマと弓矢で射ることで倒すことができる。

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↑『デモンズソウル』王の飛龍。こんな倒し方でいいの?と最初は思った

その倒し方は面倒なだけで全く難しくないし、全く危険がない。大量の弓矢さえあれば誰でも倒すことが可能だ。こうした勇ましくもなければ、倒して達成感があるわけでもない、やってもやらなくてもいい敵が存在している。こんな攻略方法で良いのか?とベテランのゲーマーであればあるほど少しだけ戸惑うだろう。しかし、こうしたアナーキーで拙い攻略方法の存在がプレイヤー側に「じゃあ正攻法でなくても良いんだな」という安心感を与える。ソウルシリーズに用意される多くのチート的な攻略方法は救済措置として用意されている面もあると想像されるが、ゲーム自体が明らかに正攻法ではない法外さを孕んでいるからこそ、チート的な攻略の罪悪感を低減させる。「下手な人に救済措置を用意しましたよ」と親切さをアピールしていたら、多くのプレイヤーはもっとゲームに反発を感じていたかもしれない(イージーモードは選択したくない、というような)。しかしゲーム自体がある種の「拙さ」や「法外さ」を持っていると見せかけられるなら、人は自分の拙さを許し、ハメ技や安全地帯からの遠距離攻撃などややズルい攻略を使うことのハードルが下がるだろう。ひいては難しいと言われるソウルシリーズを「クリアしてやった!」という達成感に(ズルをしてしまった罪悪感を小さいままに)巧みに誘導できているのではないだろうか。

不器用なオンライン機能

また、ソウルシリーズはその大きな特徴としてオンライン機能が直接的な攻略につながっているという点がある。血痕の存在や、メッセージ、そして白霊と呼ばれる協力プレイのシステムがあり、それらはプレイヤーが難しいゲームを攻略するのに役に立っている。加えて、ゲーム実況に代表されるオンライン上でのコミュニティの存在もまた、ソウルシリーズの攻略において、なくてはならないものだろう。

ただ、システムが備えるオンライン機能は、現代の他のゲームのオンライン機能に比べると、とても不器用なものである。以下の記事でも次のように言われている。(太字は筆者)

https://www.redbull.com/jp-ja/why-hardcore-gamers-love-dark-souls

https://www.redbull.com/in-hi/why-hardcore-gamers-love-dark-souls(原文)

 

このゲームは、奥深くてやり応えのあるゲームプレイに、他のプレイヤーを助ける(または倒す)か、先に潜む危険やショートカットを他のプレイヤーに教えるメッセージを残せるという魅力的だがぎこちないオンラインシステムを組み合わせていた。

定型文や奇妙なエモートによってしか、コミュニケーションは取ることが出来ない。しかしこうした不器用なコミュニケーションだからこそ、プレイヤーは自らの物語としてその攻略の過程を構築することができる。

そしてオンラインコミュニティを通した攻略についても似たような面がある。次のようなケースを想像してみてほしい。ネットで攻略情報を検索して得ることと、友人から攻略情報を教えてもらうことは、似ているようで少し異なる。前者にはどこかチート感(ズルをしている感)が伴う。後者であっても、同じことを教えてもらうのだとしたら、同じようにチート的だと言えなくもない。しかし、人は後者(友達が教えてくれた攻略)に対してはややチート感を感じない。これは、その攻略情報の伝達という過程が、自分にとってユニークで個人的な体験として捉えやすいからだろう。もちろん人によっては「あまり攻略情報を言わないで」と友人たちに伝えることはありうる。しかし、そうした普段からのコミュニケーションの文脈があるからこそ、友人から教えてもらった攻略情報なら、意外に自然と受け入れることができる場合も多い(ここではネタバレに怒るようは話とは別の話をしている点に注意してほしい。ポイントは自分の中に生じるチート感だ)。

ソウルシリーズは、その攻略の在り方が、「自分の攻略物語」として構築しやすいという特徴を持っている。定型文でしか伝わらないからこそ、自分で残りの部分は補い、結果、自分の物語になる。また友人という個人的な関係での伝達だからこそ、会話の流れや友人の気遣いなども踏まえて、攻略情報のやり取りは自分の物語になる。また、ネットでのゲーム動画の視聴は、個人的な体験となるケースも多い。それが攻略を目的とした動画ではない場合、他人の実況動画を見ていて何か攻略に有用な情報に気が付くことは、「ネット上の攻略情報を調べる」ことと異なり、チート感が薄くなるだろう。正解を求めて、正解を直接調べているのではない。ゲームクリエイターの意図に沿って計画されたものでもない。ユルいコミュニケーションだからこそ、自分の物語となる。先の記事でも次のように言われる。

プレイヤーたちはこの謎めいたアクションRPGについて話をせずにはいられなかった。
まず、難易度が非常に高く、さらにはトライ&エラーを繰り返すか、他のプレイヤーと協力しなければ発見できない秘密が山ほど隠されているようにも思えたからだ。

もちろん、ソウルシリーズは難しいゲームであり、ある程度のプレイヤースキルの鍛錬は必要になる。それが苗床となり、不器用で個人的なコミュニケーションが肥料となり「あくまで私が攻略したんだ」という物語が育つ。この文脈を作り上げるシステムとコミュニティの存在が、ソウルシリーズのプレイ体験において大きな意味を持っているのではないだろうか。

以上のように、難しいゲームを攻略するのに、やや拙い攻略法をゲーム自らが提示していて、かつ、自分の物語を形成させるという点において、ソウルシリーズは他のゲームと一線を画していると考える。

親切なゲームが失いがちなこと

ビデオゲームはその黎明期から時間が経つにつれて、どんどんと親切になっていった。その時、多くの人は、自分がそのゲームをプレイしているのか、そのゲームにプレイさせられているのかを無意識的にやや不安に思っていたのではないか。なぜ古参のゲーマーはドラクエで「冒険の書」が消えたことをやたらと語りたがるのか。それは冒険の書の消失は不条理で、ゲームデザイン的な意図の埒外にあるからだ。だからこそその体験は「私の物語だ」という確信を産む(実際は極めてありふれた誰にでも生じる事象かもしれないのに)。ゲームによる「私の物語を紡ぐこと」を再び可能にする、それがソウルシリーズの偉大な面であるだろう。親切なゲームは確かに優しいのかもしれないが、それは一種のパターナリズムを感じさせる。*3「おー、よちよち、気持ちよくプレイさせてあげますよ」という態度には傲慢さが滲んでいる。ビデオゲーマーはその嫌らしさを敏感に感じ取った。だからこそ、設計が欠如しているようで、偶然的で、本気で殺しにかかってきていて、拙くて、アナーキーである『ダークソウル』に、新鮮な親近感とある種の「誠実さ」を感じ取ったのだ。それはゲームが快楽をもたらすだけのものではないということを思い出させる。

開発者でありディレクターである宮崎英高氏は自らのゲームを「クラッシック」と表現する*4。しかし、単にそれは復古的な仕組みを持ち込んだだけではない。オンライン機能やリアルなグラフィック描写という現代的な道具立てでゲームを成立させている。この新しさは、これまで積み上げてきたゲームの歴史の流れに位置付けられるからこそ、その巧みさが際立って見える。それは、プレイヤーに親切であり、プレイヤーに気持ちのいい時間を提供し続ける、そんな過保護なビデオゲームの歴史における華麗なカウンターなのだ。ソウルシリーズがここまで偏愛されるのは、そうした「ゲームプレイを自分たちのものへと取り戻した『私たちのゲーム史』」として受け止められているからでもあるだろう。

 

*1:このKotakuの記事自体は2018年だが、記事本文内に記載されている通り、当記事の内容が最初に公開されたのは2015年である。

*2:『エルデンリング』にはマップ機能が搭載されている。しかしここでの議論は部分的には有効であると考えている。本稿の主張は以下2点が重要である。1つは、バランス取りをソウルシリーズは事実として放棄しているわけではないということ。つまり放棄しているように「見える」ということがポイントだ。ゲームでバランス取りをしていないゲームが楽しく遊べるはずがない。もう1つは『エルデンリング』に搭載されたマップの不便さはこの議論に通じる面があると考える。例えば他のゲームであれば表示されるヒントや達成マークが『エルデンリング』のマップでは相対的に少ない点が挙げられるだろう。

*3:補記:2022年3月7日 当然だが、パターナリズムだから悪いということはない。ゲームが「行為をデザインするもの」(松永伸司『ビデオゲームの美学』2018)という特徴から大なり小なりパターナリズム的な側面は持たざるを得ないだろう。本稿はそれにどう向き合うかという話だ。

*4:宮崎氏の「クラッシック」という発言のあるインタビュー記事はこちら。だけどやっぱりゲームが作りたくて――「DARK SOULS」の宮崎英高氏に聞いたフロム・ソフトウェアという会社のあり方