ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『ダークソウル』はゲームにおけるパターナリズムへの華麗なカウンターである

本稿に素晴らしい編集を施していただいた記事が、『週末批評』という批評サイトに載っています。ぜひそちらを読んでいただければと思います。

『ダークソウル』はなぜ「不親切」なのか?──パターナリズムにあらがう「私の物語」の復興 | 週末批評

週末批評 | ごくごくインディーな文化批評サイト

------元の記事は以下になります------

2022年2月に『エルデンリング』がリリースされた。このタイミングで改めて、2010年代で最も影響のあった(と言ってもいいだろう)ゲームである『ダークソウル』について考えたい。ただ『ダークソウル』という個別の作品にだけこだわりたいのではない。『デモンズソウル』から始まるいわゆるソウルシリーズについて考えたい。これらの作品は世界中で賞賛され、多くのゲームに影響を与えている。2021年11月には、イギリスで開催された「ゴールデン・ジョイスティック賞」においてオールタイムベストとも言える「Ultimate Game of All Time」を『ダークソウル』が獲得した。「ゴールデン・ジョイスティック賞」は1983年に創設されたゲーム業界の中でも老舗の賞イベントである。

Dark Souls crowned Ultimate Game of All Time at Golden Joystick Awards | GamesRadar+

しかし、正直言うと、よく分からないところもある。というのも、『ダークソウル』には多くの欠点があるようにも見えるからだ。特に発売初期にはゲーム後半のダンジョンには多くの批判もあり、またそれ以前にかなり高い難易度は、人によっては容易に欠点となるだろう。こんなにも欠点が愛されたゲームは他にないかもしれない。それら欠点は『ダークソウル』の話になると、愛嬌であったり、誘惑であったり、長所として語られてしまう。こうした疑問を踏まえ、本稿では「単に難しくて達成感があるゲームとソウルシリーズは一体何が違うのか?」を示したいと思う。

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↑『デモンズソウル』2009年2月。ソウルシリーズの歴史はここから始まった(画像はリメイクのPS5版)

『ダークソウル』はプレイヤーを「信頼」しているのか?

まずは、『ダークソウル』に代表されるソウルシリーズに対して語られた言説を見てみよう。以下にリンクを貼る記事は、2018年にKotakuというゲームメディアに掲載されたゲーム開発者たちのインタビュー記事だ。

What Game Designers Love (And Don’t Love) About Souls Games*1

記事タイトル訳『ゲームデザイナーはソウルシリーズの何を愛している(もしくは、愛していない)のか?』

記事内容はインディゲームなどの開発者たちにソウルシリーズの魅力や欠点を語ってもらうというもの。開発者たちの指摘は、なるほどと思うことも多い。その中の1つの言葉を引用してみよう。

ソウルシリーズのゲームは、時に、プレイヤーに対する無関心や無視と思われるものによって称賛されている。

こう語るのは、グレッグ・カサヴィン(Greg Kasavin)である。Supergiant Gamesの脚本家・ディレクターであり、『バスティオン(Bastion)』『トランジスター(Transistor)』『ハデス(Hades)』を作った開発者の言葉だ。彼は、次のように続けて言う。

私がソウルシリーズのゲームを愛する主な理由は、私への信頼の大きさなんだ。会う人みんなも同じくらい私を信頼してくれていたらいいのに。

ソウルシリーズには、こうしたプレイヤーへの信頼という話題がたびたび出る。最近掲載された以下の日本語記事でも同じように「プレイヤーを信頼している」ということが語られる。(太字は筆者)

『エルデンリング』の発売が待ちきれないので「ソウルライク」の面白さを考えてみた

それでもなぜ、フロム・ソフトウェアが難易度調整要素すら搭載せずにこのようなゲームをプレイヤーに突きつけてくるのかといえば、それはプレイヤーというものを信頼しているからではないかと思う。そしてそんなフロム・ソフトウェアをプレイヤーもまた信頼しているから何度投げ出しそうな難易度のボスに直面したとしても、ゲームをそう簡単には投げ出さないのではないだろうか。

プレイヤーを置いてけぼりにしかねない難易度を提供した『デモンズソウル』は、「それでも付いてきてくれるはずだ」というプレイヤーへの信頼があるのだという解釈は確かに可能である。しかし一方で、ギブアップしてしまうプレイヤーに対して冷淡で無関心だとも解釈できる。このように、ソウルシリーズを何作もクリアするようなプレイヤーにとっては「信頼」と解釈できるだろうし、一方で、難しさからプレイを途中であきらめてしまった人には「冷淡」として解釈されるという状況がある。これは単に信頼という言葉で済ませられない何かがあると考えるべきではないだろうか。

リアリティとゲーム的都合の良さの対立を超える

2000年代以降、ゲームのグラフィックが高度な表現を可能にすることで、多くのプレイヤーは直感的に、それがビデオゲームのプレイと齟齬をきたすケースがあるのではないかと感じ始めた。「リアルなグラフィックがゲームを面白くするのか?」という議論は、稚拙なことも多いかもしれないが、とても素直な直感でもある。例えば次のように言うとすれば、多くの人が納得できる話でもあるだろう。

リアリティを追求することで、ゲームプレイ上の利便性が損なわれることがある。

逆に、利便性を追求することで、リアリティが損なわれることがある。

『ダークソウル』は3Dアクションであるが、一般的な3Dアクションゲームには搭載されていることが多いマップやミニマップの機能が搭載されていない。こうした点については、上記のようなリアリティと利便性の観点を踏まえると、次のように言える。

マップやミニマップによって常に俯瞰視点で自キャラと周りの環境を把握できることは、当然、「ヒリヒリするような冒険のリアリティ」を損なうことがありうる。しかし、それを多くのプレイヤーは、ゲームであれば生じる避けがたい矛盾であり、それは分かった上で、ゲームデザイン上のバランス感覚を評価する。「リアリティの面では変かもしれないけど、これぐらいの都合の良さは許されるべきだろう」とか。ここで重要なのは、矛盾に気が付きつつも、リアリティと利便性の対立は「どこかでバランスを取るものなんだろう」と考えられている点だ。

しかし、ソウルシリーズのパラダイムシフトは、正にこの対立構造を脱臼させるようなところにある。ソウルシリーズではマップ自体を導入しない*2ことで、リアリティと利便性の間を取るようなバランス取りを全然していないとも言える。これは単にリアリティに極振りしているわけではない。もちろん、単にプレイヤーを「信頼」して、利便性がなくても付いてきてくれるはずだと思っているだけでもない。ソウルシリーズはこれまで他のゲームでなされていたリアリティと利便性のバランスを取るための努力を、一見すると、「放棄」しているように見えるところがある。その「放棄」を限りなくポジティブに言うために「信頼」という言葉が選択されていると私は考える。
マップ機能の例に限らない。例えば初代『ダークソウル』で、最初の拠点から(最も難易度的にノーマルと言える)城下不死街に向かうための階段は、プレイ上のガイドが明らかに不足している。その階段に向かわずに、(序盤には不当に難易度が高い)巨人墓地や小ロンド遺跡に向かってしまったプレイヤーは多いだろう。しかし、こういう「冷淡さ」や「不親切さ」は、ソウルシリーズにおいて独特の持ち味として肯定的に受け取られている。これは単に難しくリアリティのあるゲームを提供しているというだけではない。特徴的なのは、その難しさが一見すると「設計(デザイン)されているように思えない」というところにある。つまりデザイン(意図)の欠如によって、その世界が人工的に作られたものではなく、正真正銘、ありのままに存在しているのかもしれないという感覚を与えている。現実世界の美しい鍾乳洞に「人を美しさで感動させよう」という意図が無く、むしろその意図がないことによって余計に人は感動するという構造に似た感覚を、ソウルシリーズはプレイヤーに感じさせる。もちろん、本当に設計(デザイン)が欠如しているということはない。ソウルシリーズが難しいように見えて、ちゃんとクリアできるようになっているのは明らかに人による巧みな設計(デザイン)の存在を示している。重要なのは「こいつは本物の(意図されていない)難しさなのではないか。マジモンなのではないか?」と不安にさせる点にある。よく「本気で殺しにきている」という褒め言葉が高難易度ゲームに対してなされることがあるが、この褒め言葉にはそういう「作り物や茶番ではない」ことへの賞賛がある。ソウルシリーズの難易度の巧みさはこうした「茶番ぽく感じさせない」ことにあり、これがソウルシリーズを特徴づける魅力の1つではないだろうか。

次にその難しさの「攻略」について考えてみよう。

正攻法とは思えない「拙い」攻略の存在

ソウルシリーズとその他の難しいゲームとでは、一体何が異なるのか。難易度の調整において、ソウルシリーズは絶妙であり、バランスが良いという面は確かにある。しかしここではそういう観点とは少し違う観点から考えてみたい。私はそれが攻略の在り方にあると考える。

ソウルシリーズは難しいゲームであるものの、その攻略においてはややチート(ズル)と言えるような攻略法が数多く存在している(ハメや安全地帯など)。しかしそうしたチート的な攻略を許してくれるような雰囲気がソウルシリーズにはある。その要因の一つに、システムが用意する一部の攻略法に、裏技のような正攻法とは思えないものがある点だ。

デモンズソウル』の序盤に「王の飛竜」という大きなドラゴンの敵が出てくる。倒さなくてもゲーム自体は進めることができるが、倒すこともできる。しかし地上に一切降りてくることはなく、クルクルと同じ場所を旋回している。このドラゴンは、おあつらえ向きに存在している近くの塔の上からチマチマと弓矢で射ることで倒すことができる。

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↑『デモンズソウル』王の飛龍。こんな倒し方でいいの?と最初は思った

その倒し方は面倒なだけで全く難しくないし、全く危険がない。大量の弓矢さえあれば誰でも倒すことが可能だ。こうした勇ましくもなければ、倒して達成感があるわけでもない、やってもやらなくてもいい敵が存在している。こんな攻略方法で良いのか?とベテランのゲーマーであればあるほど少しだけ戸惑うだろう。しかし、こうしたアナーキーで拙い攻略方法の存在がプレイヤー側に「じゃあ正攻法でなくても良いんだな」という安心感を与える。ソウルシリーズに用意される多くのチート的な攻略方法は救済措置として用意されている面もあると想像されるが、ゲーム自体が明らかに正攻法ではない法外さを孕んでいるからこそ、チート的な攻略の罪悪感を低減させる。「下手な人に救済措置を用意しましたよ」と親切さをアピールしていたら、多くのプレイヤーはもっとゲームに反発を感じていたかもしれない(イージーモードは選択したくない、というような)。しかしゲーム自体がある種の「拙さ」や「法外さ」を持っていると見せかけられるなら、人は自分の拙さを許し、ハメ技や安全地帯からの遠距離攻撃などややズルい攻略を使うことのハードルが下がるだろう。ひいては難しいと言われるソウルシリーズを「クリアしてやった!」という達成感に(ズルをしてしまった罪悪感を小さいままに)巧みに誘導できているのではないだろうか。

不器用なオンライン機能

また、ソウルシリーズはその大きな特徴としてオンライン機能が直接的な攻略につながっているという点がある。血痕の存在や、メッセージ、そして白霊と呼ばれる協力プレイのシステムがあり、それらはプレイヤーが難しいゲームを攻略するのに役に立っている。加えて、ゲーム実況に代表されるオンライン上でのコミュニティの存在もまた、ソウルシリーズの攻略において、なくてはならないものだろう。

ただ、システムが備えるオンライン機能は、現代の他のゲームのオンライン機能に比べると、とても不器用なものである。以下の記事でも次のように言われている。(太字は筆者)

https://www.redbull.com/jp-ja/why-hardcore-gamers-love-dark-souls

https://www.redbull.com/in-hi/why-hardcore-gamers-love-dark-souls(原文)

 

このゲームは、奥深くてやり応えのあるゲームプレイに、他のプレイヤーを助ける(または倒す)か、先に潜む危険やショートカットを他のプレイヤーに教えるメッセージを残せるという魅力的だがぎこちないオンラインシステムを組み合わせていた。

定型文や奇妙なエモートによってしか、コミュニケーションは取ることが出来ない。しかしこうした不器用なコミュニケーションだからこそ、プレイヤーは自らの物語としてその攻略の過程を構築することができる。

そしてオンラインコミュニティを通した攻略についても似たような面がある。次のようなケースを想像してみてほしい。ネットで攻略情報を検索して得ることと、友人から攻略情報を教えてもらうことは、似ているようで少し異なる。前者にはどこかチート感(ズルをしている感)が伴う。後者であっても、同じことを教えてもらうのだとしたら、同じようにチート的だと言えなくもない。しかし、人は後者(友達が教えてくれた攻略)に対してはややチート感を感じない。これは、その攻略情報の伝達という過程が、自分にとってユニークで個人的な体験として捉えやすいからだろう。もちろん人によっては「あまり攻略情報を言わないで」と友人たちに伝えることはありうる。しかし、そうした普段からのコミュニケーションの文脈があるからこそ、友人から教えてもらった攻略情報なら、意外に自然と受け入れることができる場合も多い(ここではネタバレに怒るようは話とは別の話をしている点に注意してほしい。ポイントは自分の中に生じるチート感だ)。

ソウルシリーズは、その攻略の在り方が、「自分の攻略物語」として構築しやすいという特徴を持っている。定型文でしか伝わらないからこそ、自分で残りの部分は補い、結果、自分の物語になる。また友人という個人的な関係での伝達だからこそ、会話の流れや友人の気遣いなども踏まえて、攻略情報のやり取りは自分の物語になる。また、ネットでのゲーム動画の視聴は、個人的な体験となるケースも多い。それが攻略を目的とした動画ではない場合、他人の実況動画を見ていて何か攻略に有用な情報に気が付くことは、「ネット上の攻略情報を調べる」ことと異なり、チート感が薄くなるだろう。正解を求めて、正解を直接調べているのではない。ゲームクリエイターの意図に沿って計画されたものでもない。ユルいコミュニケーションだからこそ、自分の物語となる。先の記事でも次のように言われる。

プレイヤーたちはこの謎めいたアクションRPGについて話をせずにはいられなかった。
まず、難易度が非常に高く、さらにはトライ&エラーを繰り返すか、他のプレイヤーと協力しなければ発見できない秘密が山ほど隠されているようにも思えたからだ。

もちろん、ソウルシリーズは難しいゲームであり、ある程度のプレイヤースキルの鍛錬は必要になる。それが苗床となり、不器用で個人的なコミュニケーションが肥料となり「あくまで私が攻略したんだ」という物語が育つ。この文脈を作り上げるシステムとコミュニティの存在が、ソウルシリーズのプレイ体験において大きな意味を持っているのではないだろうか。

以上のように、難しいゲームを攻略するのに、やや拙い攻略法をゲーム自らが提示していて、かつ、自分の物語を形成させるという点において、ソウルシリーズは他のゲームと一線を画していると考える。

親切なゲームが失いがちなこと

ビデオゲームはその黎明期から時間が経つにつれて、どんどんと親切になっていった。その時、多くの人は、自分がそのゲームをプレイしているのか、そのゲームにプレイさせられているのかを無意識的にやや不安に思っていたのではないか。なぜ古参のゲーマーはドラクエで「冒険の書」が消えたことをやたらと語りたがるのか。それは冒険の書の消失は不条理で、ゲームデザイン的な意図の埒外にあるからだ。だからこそその体験は「私の物語だ」という確信を産む(実際は極めてありふれた誰にでも生じる事象かもしれないのに)。ゲームによる「私の物語を紡ぐこと」を再び可能にする、それがソウルシリーズの偉大な面であるだろう。親切なゲームは確かに優しいのかもしれないが、それは一種のパターナリズムを感じさせる。*3「おー、よちよち、気持ちよくプレイさせてあげますよ」という態度には傲慢さが滲んでいる。ビデオゲーマーはその嫌らしさを敏感に感じ取った。だからこそ、設計が欠如しているようで、偶然的で、本気で殺しにかかってきていて、拙くて、アナーキーである『ダークソウル』に、新鮮な親近感とある種の「誠実さ」を感じ取ったのだ。それはゲームが快楽をもたらすだけのものではないということを思い出させる。

開発者でありディレクターである宮崎英高氏は自らのゲームを「クラッシック」と表現する*4。しかし、単にそれは復古的な仕組みを持ち込んだだけではない。オンライン機能やリアルなグラフィック描写という現代的な道具立てでゲームを成立させている。この新しさは、これまで積み上げてきたゲームの歴史の流れに位置付けられるからこそ、その巧みさが際立って見える。それは、プレイヤーに親切であり、プレイヤーに気持ちのいい時間を提供し続ける、そんな過保護なビデオゲームの歴史における華麗なカウンターなのだ。ソウルシリーズがここまで偏愛されるのは、そうした「ゲームプレイを自分たちのものへと取り戻した『私たちのゲーム史』」として受け止められているからでもあるだろう。

 

*1:このKotakuの記事自体は2018年だが、記事本文内に記載されている通り、当記事の内容が最初に公開されたのは2015年である。

*2:『エルデンリング』にはマップ機能が搭載されている。しかしここでの議論は部分的には有効であると考えている。本稿の主張は以下2点が重要である。1つは、バランス取りをソウルシリーズは事実として放棄しているわけではないということ。つまり放棄しているように「見える」ということがポイントだ。ゲームでバランス取りをしていないゲームが楽しく遊べるはずがない。もう1つは『エルデンリング』に搭載されたマップの不便さはこの議論に通じる面があると考える。例えば他のゲームであれば表示されるヒントや達成マークが『エルデンリング』のマップでは相対的に少ない点が挙げられるだろう。

*3:補記:2022年3月7日 当然だが、パターナリズムだから悪いということはない。ゲームが「行為をデザインするもの」(松永伸司『ビデオゲームの美学』2018)という特徴から大なり小なりパターナリズム的な側面は持たざるを得ないだろう。本稿はそれにどう向き合うかという話だ。

*4:宮崎氏の「クラッシック」という発言のあるインタビュー記事はこちら。だけどやっぱりゲームが作りたくて――「DARK SOULS」の宮崎英高氏に聞いたフロム・ソフトウェアという会社のあり方