ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『ゼノブレイド3』は能力主義(メリトクラシー)社会での分断にどんな答えを出したのか?

2022年7月にNintendo Switchで発売された『ゼノブレイド3』。シリーズ三作目であり、海外での評判も悪くない。メタクリティックスでは89点という意外な高得点をマークしている(2022年8月15日現在)。

Xenoblade Chronicles 3 for Switch Reviews - Metacritic

ちなみに初代『ゼノブレイド』(2010)のWii版は92点*1、『ゼノブレイド2』(2017, Switch)は83点である。点数だけ見れば、『3』は名作と言われた初代に近い高評価を受けている。なお『1』と『2』の間に発売された外伝作品の『ゼノブレイド クロス』(2015, Wii U)は84点であるので、メタクリティックスの点数が落ち続けていたシリーズ作品が『ゼノブレイド3』で復活を遂げたとも言えるだろう。

ゼノブレイド3(販売:任天堂 開発:モノリスソフト

実際、シリーズ4作をクリアした私の感触としても、メタクリティックスの点数は極めて妥当だと感じている。全体評価ということで言えば、今作『3』は悪くはなかったが、最終的には『1』を超えることはややできなかったor同じくらいと感じている。本稿では、そうした娯楽ゲーム作品としての評価についてはあまり語らない。本作の物語で扱われるテーマについて主に語りたい。ただ、本題に入る前に、簡潔にゲームとしての評価を註に記しておく。お時間あればそちらを読んでほしい。→*2ゲームとしての短評。

能力がない者の絶望

では、本題に入ろう。本作で1番興味深いと思ったのは、物語が扱っているテーマである。本作では主人公たちに敵対する勢力として、メビウスと呼ばれる集団がいる。そのメビウスに、かつての仲間達や友人が「堕ちていく」様が、何度となく描かれる。なぜ彼らは悪役側に「堕ちて」しまうのか。それは記事タイトルにも書いた能力主義メリトクラシー)への絶望によって引き起こされている。つまり「能力が低いから、この世界では認められない。だから、この世界から脱したい」と思う者たちが、悪役に「堕ちて」いるのだ(ただ、すべてのメビウスがそうなわけではない)。この点についてはゲームメディアAUTOMATONの以下のレビューでも取り上げられている。少し長くなるが、一節を引用しよう。

automaton-media.com

作中ではたびたび「自己実現の可能性」において強者と弱者の関係性がフィーチャーされる。強者とは当時代において才能が強みとして認められている人間のこと。弱者とは才能が強みとして認められない時代に生きている人間のことである。主に強者側に主人公らが立ち、弱者側には敵対者が立つことになる。その上で、何が優れているのか、結果として上手くいくのかを決めるのは時の運であると、主人公の口からしっかり言わせたことや、弱者側に自己責任論を展開するでもなく、強者側に歪なノブレス・オブリージュを要求するでもなく、互いに手を取り合って自己実現に向け戦っていくことが重要だという姿勢を、この格差広がる現代で示したのは称賛の一言である

-----AUTOMATON『『ゼノブレイド3』レビュー。集大成にして最高傑作。忘れ得ぬ体験を与えてくれる、モノリスソフト12年の結晶(ネタバレあり)』

もちろん社会に認められない者が悪の手先になるのは珍しい設定ではない。本作で目を引くのは「能力がない」ということの苦しみを前面に押し出している点にある

f:id:tuquoi:20220816090336j:image

つまり、不遇の天才が悪なのではない。能力がないゆえに悪になるのだ。そして何より主人公サイドを「才能がある強者」として描き、そこに傲慢さがないか?という疑問を直接的に表現している。*3

面白いのは、本作において、この能力主義に絶望し、悪に堕ちた者たちを「どのように承認しているか?」という点である。JRPGでは、悪に堕ちた者が反省したら仲間になるという作品も多い。だから、本作『ゼノブレイド3』が、堕ちた者を暴力で成敗しつつ、一方で承認するという流れになっていることは、これまでのJRPG作品と比較しても、特に変わったことをしているわけではないように見える。しかし、その承認の仕方が、本作は少しだけ特徴的なのだ。

結論を先に述べるなら、悪や敵を許すことは「ちょっとおかしい」という自覚を示しつつ、そこで「許す」のではなく「理解する」ことで承認する、という手続きを踏んでいる。更に詳しく見てみよう。

主人公の「過剰ないい奴であること」への疑問

本作の主人公はノアという青年だが、彼は「おくりびと」と呼ばれる仕事をしている。「おくりびと」とは、戦場で死んでしまった兵士の近くで笛を奏でて、その音色で死者の魂を弔い、あの世へと送る仕事である。この行為は「おくり」と呼ばれる。理屈はよく分からないが、兵士の死体は笛の音色によって、綺麗な粒子となって天に登っていく。とりあえず、そういう世界設定である。

で、この主人公のノアだが、自軍の兵士だけでなく、敵軍の兵士の死体も「おくって」やるという人物であり、少し変わり者として描かれている。まあ、これだけ聞くと「ああ、そういう奴ね。いるよね、アニメとかで、そういう"いい奴的"な主人公って……」と思われるかもしれない。なんというか、敵味方の分け隔てがない、博愛的な振る舞いをするキャラである。

この主人公ノアだが、ひょんなことからその戦争で戦っている相手とは異なる敵の存在を知る。その敵集団はメビウスと呼ばれ、自分達が行なっている戦争行為もメビウスという支配層によって仕組まれたものなのだと知る。つまり、ノアは普段の敵とは異なる、より上位の敵を知ることになるわけだ。

面白いのは、普段の戦争相手である敵には「おくり」をする博愛精神を見せるノアが、あるメビウスを「おくる」ことを明確に拒否する場面があることである*4。ノアの幼馴染であるランツが「さっきの儀式さ "あいつら"もおくってた?」と問う。ここでの"あいつら"とはその憎いメビウスを指す。それにノアは答える「さすがに今日は無理だよ」「俺も人間だから」と。

憎い敵を"弔わない"主人公

ここで重要なのは、敵と一口に言っても「許せる敵」と「許せない敵」がいるという区別を設けている点である。これは非常に現代的というか、今風であり、あらゆる悪を相対化して「正義はそれぞれだ」という結論に安易に行かないことを示している。ノアにだって「おくり」をしたくないという気持ちがあり、その「許せない」という気持ちこそが戦いの原動力になっている。このシーンは初代『ゼノブレイド』において、主人公のシュルクが物語中盤で敵の命を奪わない選択をするというシーンと対照的である*5。初代『ゼノブレイド』で、敵への許しを見せる主人公に他の仲間は反発する。しかしシュルクは孤高な存在であることを強調するかのように、敵の命を奪うことを拒否する。これに対して『3』の主人公ノアは、許せないものは許せないという判断をしている。そもそもシュルクは敵の命を救ったが、ノアは敵を殺しており、その点においても異なっている*6。  

こうした『3』の描写はここだけではない。「悪いものは悪いと断じるのは当然だ」という価値観が明確に語られている。例えば、次のようなセリフも同様だろう。以下の画像は、強さをひたすら求める狂犬的な人物(ただし協力者)に対して、ユーニという主人公の仲間がツッコミを入れている。

おかしいものはおかしいと言い切るユーニ

これまでの日本のRPGではこうした狂犬キャラはある種のお約束的で、やや微笑ましい存在にさえ扱われ、その暴力性は矮小化されてきた。しかしこれにマトモなツッコミを入れる本作にはとても真っ当な判断力があることを感じさせる。

また本作だけではなく、JRPGの代表とも言えるテイルズシリーズの最新作『テイルズ・オブ・アライズ』(2021)でも、こうした「悪は悪であり、簡単には相対化されない」という価値観が示されている。詳しくは以下の記事に書いたので、それを参照願いたい。

turqu-videogame.hatenablog.com

こうした最近のJRPGでは、そのジャンルの物語においてこれまでやりがちであった「悪者にも悪者なりの事情があるのだ」という「悪の相対化」に対して距離を取っている(少なくともそのフリをする)。これは『ゼノブレイド3』に限らない、とても現代的な表現の傾向であると考えられる。その傾向の影響を本作も受けていると言えるだろう。

許せない悪と許せる悪の境界を描く

では、『ゼノブレイド3』が悪を断じる物語かと言うとそうではない。最終的にはある意味「悪を承認する物語」となっている。しかし一足飛びにその結論に至るのではなく、段階を踏んでいる。それを象徴するエピソードが第4話のエセルとカムナビの2人の戦いである。

簡単に人物を紹介すると、エセルとは主人公ノアの陣営に属する伝説的なエリート女性兵士である。そして、カムナビは、反対にヒロインであるミアが所属する陣営のエリート男性兵士である。互いの所属は敵対勢力にあたるわけだが、そのエセルとカムナビは、互いを好敵手と捉えており、エセルはかつてカムナビとの勝負に勝った際には、相手(カムナビ)にトドメを刺さず、見逃してやったという過去がある。しかし、むしろその敵の命を奪わなかった行為によってエセルは組織内で降格させられてしまっている。*7

この2人は上位の支配層であるメビウスの命令によって、主人公の命を狙うのだが、逆に主人公の生き様に感化され、自由になることを望む。そして自由を手にした2人が何をしたかと言うと、命をかけて互いに兵士として戦い合うことを選ぶのだ。やや唐突に思われる展開の粗野さは置いておくとして、ここで、2人の戦いに対する主人公たちの評価が興味深い。

殺し合いを望むエセルとカムナビへの主人公たちの戸惑い

エセルとカムナビの2人が互いに殺し合いを望むことに、戸惑いつつ、しかしその信念にはどこか否定できない気持ちを、主人公ノアは抱く。もちろん2人の決断を完全に正しいこととは判断できない。そもそもノアはメビウスたちに反抗し、彼らが自分達に戦争を強いている構造を壊そうとしている。それなのに、エセルとカムナビは、自らの意志で、互いに殺し合うわけで、それはメビウスたちの「戦わせるという思惑」と寄り添いかねない。それはノアたち主人公にとって簡単には受け入れられない価値観だろう。だからと言って、その戦士としての純粋な思いを否定し切ることもノアにはできない。

一見すると、非常に幼稚な展開にも思えるし、実際拙いところもあるエピソードなのだが、これは私たちの祖父や曽祖父たちが戦った聖戦を、基本的には間違っているようには思っているけれど、その純粋な個々人の気持ちには、100%否定しきれない気持ちを抱くことに似ている。だからこそ一周回って「ダメなものはダメ」と言わなくてはいけないのだ、という考えは確かにある。しかしむしろそのことを了承した上で、「それでも……」と躊躇う気持ちは残る。その境界例がこのエピソードで描かれていることが興味深い。このステップを踏むことで、終盤にかけて、更に一歩進み、「許せない悪」をどのように承認するかの話へと本作は展開していく。

「許せない悪」は他者なのか?

さて、境界例を示して、様々なイデオロギーが対立する中で、主人公は最終的には「許せない悪」を部分的に承認する。では、そうした承認行為は、いわゆる「悪の相対化」と何が異なるのだろうか。「悪人にも斟酌すべき可哀想な事情があるのだ」という物語であれば、これまでにも無数にあった。日本のRPGには、『ファイナルファンタジー』シリーズを始め、様々な「悪の相対化」を施してきた物語があった。

では、そうしたこれまでの作品群と異なり、『ゼノブレイド3』の特徴とは何なんだろうか。どのような意味においてこれまでの「悪の相対化」と差別化できているのか、それを見てみたい。

ゼノブレイド3』が、悪人にも斟酌すべき事情があるとしている点は、他のJRPG作品とあまり違いがない。違う点があるとすると、以下の2点である。

  1. 同じ1人の人間である自分が、全く逆の悪の側にもなりうる
  2. 悪人と自分との差は、能力や性質などではなくて、「運」である

まず1点目であるが、これはかなり明確に描かれている。本作において、かなり強いエヌというボスがいるのだが、この人物が実は主人公のノアと同一人物であると判明する。詳しい経緯は省くが、別の世界線でのもう1人の自分が、敵であるメビウスの幹部エヌであったという設定になっている。つまり、自分とは全く同じ人間であっても、場合によっては悪に染まりうる、という事実が示される。つまり悪が、自分とは違う他者的な存在ではないのだと示している。

そして、2点目が非常に重要なのだが、悪の自分と今の自分を隔てるものを「運」であると明言している。つまりここで悪かどうかは能力や先天的な性質の問題だけではないことを示している。

「運」という、ほんの少しの差

以上の2点を踏まえ、非常に面白い展開を終盤で見せる。その悪に染まった主人公の分身エヌは、ラスボスとの戦いが終わった後に、突如として再出現する。そして次のように言うのだ。

(ラスボスの抱く)願いに あなたたちの想いは届かない

だけど 同じ願いである私達ならば---

これは非常に興味深い点で、いわば、悪となった主人公の分身エヌを単に排除すべきものとするのではなく、むしろ「許せない悪(ラスボス)」を封じるために有用な存在として扱っている。そして、一度「堕ち」た存在でないと、完全に堕ちきった悪を説得することはできないし、加えて、一度堕ちてしまったことが単に悪なのではなく、ハッピーエンドに繋がるための必要な過程であったことを示している。

断罪すべき悪とのつながりを示しつつ、その差異は「運でしかない」と見極めることは、単に悪を相対化して「正義って難しいね」と賢ぶる姿勢とは異なる。断ずべき悪はそれはそれとして断罪した上で、その悪との差異を自己責任とは異なる「運」であると捉え、「運」という些細な違いでしかないからこそ、敵を理解できるかもしれない存在として示す。そして何より、メリトクラシー社会において、能力自体の有無もまた「運」の違いであることも示唆している。能力のあるかないかなど、所詮「運」でしかないのだ。

そして、こう考えると「では、運悪く能力のない者は、どうすればいいのか?」という疑問が出てくる。これに対して『ゼノブレイド3』は次のような回答を用意している。「人の能力は戦争に役立つための能力だけではない。いろんな能力を開花できるように、多様な人生を自由に選択できる社会であることが重要なのだ」と語る。つまり、「才能がない」とされた者への救いは、「多様な能力が見出されるべき」という話へと変換されている。これはこれである程度の説得性を持つ結論だろうと思う。*8

ただ、これは「何をしてもダメで、どんな才能も全くない」というような絶望を抱える人にとっては救いにはならないかもしれない。兵士としての能力以外(ゲーム内では、彫刻や絵の才能が例として語られる)を開花できるような社会が素晴らしいという結論自体は、それほど間違っていない結論だろうが、現代社会のメリトクラシーに絶望している者には、中々響きにくく、ややはぐらかされたような印象を抱く人もいるかもしれない。

とはいえ、本作は「悪を承認する」ということを部分的に認める。悪は全くの他者ではなく、巡り合わせによっては自分がそちら側に堕ちているかもしれないものとして「理解」を示すことで、一定の承認を行なっている。もちろん、悪に堕ちた者を「承認すること」は単に良いことなのではない。しかしその敵の「想い」を最低限「理解」することが、ひいては「(自分や他者の)凝り固まった考えや思い」を変えることに繋がるのではないか?

前述のセリフ「あなたたちの想いは届かないかもしれないが、わたしたちの願いは届く」には、そうした思想が根底に流れているように思われる。それは「甘い」考え方かもしれない。しかし、ネットやSNSでの飽くなき論争やイデオロギーの戦いを目にしている私たちにとって、かなりアクチュアルな解決策を示唆していると感じられるのではないだろうか。

最後に

ゼノブレイド3』は、能力主義による分断への抵抗を、個々人の責任と捉えるだけでなく、運によって説明する。そして運でしかないからこそ分断を解消できる可能性を示している。本作のテーマ性の弱さは、そこから社会(構造)を変革するという方向を明確に打ち出せていない点にあるだろう。本作がラストに向けて何回も語る「世界が変わることを望むのではなく、自分が変わらないといけない」というスローガンは一面、正しいだろう。しかしここで描いたテーマを素朴に推し進めるとすると「(自分が変わるよりも)社会や構造を変えることを優先する」というメッセージがより強調されていても、おかしくはない。ただ、そうしたメッセージを声高に語るほどには、制作陣に政治的な信念があるというわけではなかったのだろう。それはそれで中途半端なのかもしれないが、これまでのJRPG作品に比べると、遥かに現代的な問題に切り込もうという意気込みを私は感じた。

また『ゼノブレイド3』には、メリトクラシーだけではなく、ジェンダーや生殖についても語っている。それらは決して面白いレベルにまで洗練された議論がされているわけではないため、本稿では取り上げなかったが、かなり多様な価値観を尊重する姿勢が見られる。ラストシーンは、観客の予想を裏切ると言うだけでなく、そうしたことを示す象徴的なシーンになっている。

『テイルズ・オブ・アライズ』に引き続き、いかにもJRPGと言える、やや幼く、浮世離れしてると思われていたシリーズ作品が、現実社会のシリアスな問題に切り込むほどに、変化してきている。この変化を、私は大変好ましいものであると思っている。何より、「(政治的なテーマについて)後れている」とみなされがちな日本のRPG的物語も着実に変わってきていることを示している。『ゼノブレイド3』をはじめとした具体的な作品の数々は、ネット論争でしばしば見られる「ポリコレ対アンチポリコレ」のような単純なものではないことを示している。時には揶揄されるJRPGというジャンルにおいても、今後の更なる発展と変化に期待したくなる。『ゼノブレイド3』はそうした意味において、未来に繋がる良作であったと思う。

*1:ちなみにSwitchで発売されたリメイク版は89点

*2:ゼノブレイド3』は、子供っぽい脚本に、典型的なアニメっぼい設定や台詞回しに満ちており、加えて、『1』で多くの支持を集めた伏線回収やSF要素が薄めであったため、『3』のどこがとりわけ面白いかと言うとやや難しい。またRPGとしてのキモでもある戦闘パートの参加キャラ数が3人から6人に増えて元々わちゃわちゃしていた戦闘パートがより複雑化した。しかし、システム周りのUIや操作性は、前作より親切・丁寧になったことでちゃんとプレイヤーがその複雑な戦闘をコンロールする快感を感じつつ遊べるようになっており、その点は素晴らしい。ただ、この複雑で「奥深い」とも言われる戦闘システムも、複雑なだけで、各要素がそれぞれ上手く噛み合っているという印象はあまりない。例えば、なぜウロボロスオーダーだけはチェインアタックゲージがなくなっても発動できるのか、別に何の物語上、システム上の脈絡がないように思える。ただそういう仕様だから、そうなのだとしか言いようがない。こういうやや行き当たりばったりなシステムは嫌いではないのだが、見事なメカニクスかというと少し違う気もする。なんというか、個別的で汎用性は効かないが、必要に迫られて覚えざる得ないノウハウ、いわばバッドノウハウの集約みたいなメカニクスであり、どこかチグハグ感が漂う。端的に言って、こういうシステムを「奥が深い」と評価していいのかは、やや迷うところだ。ただ、繰り返すが、私はこのメカニクスが嫌いではないし、美しいメカニクスが、イコール、面白いメカニクスとは限らないだろう。これはこれで確立したシステムでもある。

いずれにしろ楽しくクリアまで80時間を今作も過ごせてしまったわけで、決して駄作ではない。楽しいRPGである。ただ色々システム上は親切になっているものの、ゲームテンポだけはやや古臭く感じ、もう少しキビキビして欲しいとは思った。

*3:ただ、ここにもJRPG的と言うか、このジャンル特有の枷のようなものがあり、やや歪な形ともなっている。というのも、能力の無さゆえに社会に絶望することまでは理解できるが、そういう者たちを悪(メビウス)の支配層が採用して、逆に彼らに社会支配をさせるという点があまり説得的ではないからだ。会社で言えば、無能で経験もないような人間がその恨みのパワーだけでいきなり役員などの要職に抜擢されているようなもので、果たしてそれで支配層(メビウス)の望むように社会を運営できるのか、はなはだ怪しい。これはどうしてもゲームという作品、特に古典的な日本的RPGというジャンルとして、善と悪の二項対立に持っていくために生じてしまった無理のようなものだろうと思われる。しかし、この点について、特に本稿ではツッコミたいとは思っていない。

*4:なお、このシーンより前に、別のメビウスをノアが「おくる」シーンがある(コロニー9の戦い)。この行為に対して、仲間達は軽い抵抗を見せる。そうしたシーンがあった上で、同じメビウスでも「おくる」気持ちになれない場合がある、ということを表現している点に着目したい。ノアは決して機械的に「おくり」をしているわけではないし、普通の怒りの感情を持っていることが改めて表現されている。

*5:大剣の渓谷において、敵のムムカの命をトドメを刺さずに救う場面

*6:ただ、ノアは職業的な兵士であり、エンジニアであるシュルクとはまた違う立場であることが、このような違いを生んでいる点もあるだろう

*7:正確に言うと、エセルの所属するコロニーが格下げとなった

*8:なお、この結論はメリトクラシー社会に警鐘を鳴らすマイケル・サンデル教授との対談で、作家の平野啓一郎が提示しているアイデアと似ていると思われる。参考までに、こちらの対談も見てみてほしい。→東大やハーバードの入試には「くじ」が必要だ。マイケル・サンデル教授が「運の存在」に気づかせようとする理由(対談全文・後編) | ハフポスト PROJECT