ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームを中心としたレビュー・コラム記事です。 映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

スマホゲーム『フローレンス』の逆説的な表現方法の素晴らしさについて

2018年にスマホでリリースされた『フローレンス(Florence)』。本当に素晴らしいゲームで、多くの人が絶賛するように将来にわたって何年も参照される傑作だろう。

f:id:tuquoi:20190923160338p:image

日常生活の何気ない動作をささやかなインタラクション*1で表現したところに本作の特徴がある。これは言ってみれば「文体の発明」であったことが多くの人にインパクトを与えたのだろう。今までデートでの会話をああいうジクソーパズルを使って表現することで「初めてのデートでのぎこちなさ」や「段々と気のおけない関係になっていく様」をプレイヤーに感じさせたことはなかったのではないかと思う。

f:id:tuquoi:20190923173458p:image

本作のこうした特徴の素晴らしさには私自身も異論はないのだが、本稿では少し違う観点、主に「インタラクションの停止」ということについて書いてみたいと思う。

 

インタラクションの停止効果

先述のデートでの会話をジクソーパズルで表現する箇所もそうだが、通勤電車でSNSを見る場面も秀逸である。

f:id:tuquoi:20190925140938j:image

SNSのフォロワーの投稿画面をしっかり確認することなく機械的に「いいね!」や「お気に入り」を押すこの日常的な行為は、ゲームを進めるための機械的・作業的な行為との類似性を感じさせる。物語を味わうタイプのゲームでよくある「行為で結果が変わる面白さ」を提供するデザインとは異なり、『フローレンス』で重要なのは「行為そのもの」である。*2

 

しかし、この「行為の結果」でなく「行為そのもの」に重点を置く、というのは『フローレンス』というゲームだけの専売特許ではない。他のゲームでも例えば強い敵を配置するのは、単にその強敵に勝つという結果(物語展開〕にだけ意味があるのではなく、「勝つのに苦労した!」という行為そのものから味わう感覚や感情にも重点が置かれている。しかし、『フローレンス』が特徴的なのは、「何かをする」ということだけではなく、「何かをしない」「何かをさせない」ことが巧みに利用されている点ではないかと思う。これをわたしは『フローレンス』における「インタラクションの停止効果」と呼びたい。

 

以下に、そうした「インタラクションの停止効果」の具体的なシーンを3つ挙げよう。

 

①職場のシーン

チャプター11では、同棲を始めて恋に浮かれるフローレンスの姿が描かれる。その際、職場でのフローレンスの仕事の様子が描かれるのだが、この描写はゲームの前半(チャプター1)と同じ画面下部に金額のパネルがある画面構成である。チャプター1の時は、パネルの金額の部分をペアになるように選択するインタラクションが必要であった。

f:id:tuquoi:20190923161139j:image

しかし恋に浮かれるチャプター11で同じ描写が出てきた時は、金額部分がプレイヤーに押される前に自動的に選択され、あっという間に仕事の場面は終了してしまう。

 

これはあえてプレイヤーによるインタラクションを停止することで、「恋に夢中になっているフローレンスは仕事での体感スピードも速い」ことを示している。かつてチャプター1でプレイヤーにさせていた「つまらない仕事」が、チャプター11では勝手に終了してしまうことで、その幸せぶりをプレイヤーに想像させることに寄与している。これはプレイヤーが「行為できない」ことを巧みに利用した演出と言えるだろう。

 

②恋の終わりのシーン

2人の恋が終わるシーンでもインタラクションの停止効果を見ることができる。喧嘩をしてしまった2人が描かれる場面は2回あるが、2回目の喧嘩シーン(チャプター14)では、2人が背中を向けあったままベットで寝ている姿がジグソーパズルを組み立てるインタラクションとして描かれる。

f:id:tuquoi:20190923161217j:image

しかしこのパズル、ちゃんとした絵として組み立てることができない(凹凸が合わない)。パズルとして完成しないようになっているのだ。チャプター15の破れた写真を組み合わせるインタラクションも同様に、どうしても完成することができない。このように「ゲームとして解決できない」感覚をプレイヤーに味わわせることで、この恋がもはや修復不可能なことを示している。これもまたインタラクションの停止を活用した演出と言えるだろう。*3

 

③成功へと至る絵を描くシーン

フローレンスは絵を描くことを趣味としている。その絵を描くという行為は度々、プレイヤーのインタラクションによって表現される。例えば、チャプター7の恋人の鉛筆画を描く場面がそうだ。また、同棲を始めるチャプター11でも同様のインタラクションを行うことで恋人の絵を描く。すこし趣向は違うが、チャプター2の子供時代にヨットの絵を描く場面では、ヨットの絵に様々な模様を置くというインタラクションを行う。


f:id:tuquoi:20190923174616p:image

f:id:tuquoi:20190923174627p:image

f:id:tuquoi:20190923174606p:image

しかし、彼女が大きな成功を手にするチャプター19以降の「絵を描く」シーンでは、全くプレイヤーに「絵を描く」という直接的なインタラクションをさせない。なぜ恋人の絵を描く時はインタラクションをさせたのに、社会的な成功に繋がる絵を描く場面はインタラクションさせないのだろう。これが「ゲーム」であるなら、むしろ成功こそをプレイヤーのインタラクションと共に味わうようにしただろう。しかしあえて『フローレンス』はその逆を行なっている。

 

これは、「社会的な成功」であることが、インタラクションを伴うことで「嘘くさく」なることを避けたからではないだろうか。『フローレンス』は最初から最後まで、とにかく「日常的な」インタラクションをさせてきた。「こういうのってよくあるよね」を感じさせるためにインタラクションが用いられてきた。ここでプレイヤーのインタラクションによって彼女が成功を手にしてしまったら、これまでのインタラクションとのバランスが取れない。これまでの手慰みで描いていた絵とは違うことを示すために、あえてプレイヤーによるインタラクションは停止させられたと考えられる*4

 

これら3つのシーンに共通するのは、インタラクションの停止が「非日常」を描くことに極めて効果的に使われているということである。①では恋愛に舞い上がる幸福感を、②では恋が終わるいたたまれないほどの緊張感を、③では奇跡的とも言える社会的な成功を、それぞれ「インタラクションの停止」によって表現している。

 

『フローレンス』が表現するもの

『フローレンス』はゲームという媒体でありながら、ゲームが得意とするような「問題の解決」「恋の成就」「社会的成功」というものをゲームらしいインタラクションで描いていない。これはゲームという表現形式が、そういった華々しい成功や達成を描きがちであることへの巧みなアンチテーゼになっている*5。ゲームは「非日常」を描くことが得意なのだという固定観念を『フローレンス』は見事に転倒している。そして、むしろ「日常」を描くことにインタラクションが用いられ、「非日常」を描くためにインタラクションの停止や「できない」ことが用いられる。この逆説こそが『フローレンス』の物語としてのリアリティを担保する。ゲームは夢物語や壮大な絵空事を描くためだけのものではないということ。むしろインタラクションは「現実そのものなんだ」ということ*6。そしてなによりプレイヤーの干渉できないところに「物語がある」ということを、『フローレンス』は表現している。

 

このゲーム的逆説を巧みに示したところに、『フローレンス』の特筆すべき達成があるのではないだろうか。

 

 

 

*1:本稿では物語を進めるために単にページを送るだけではないようなプレイヤーの行為全般を「インタラクション」と呼ぶ。厳密に「単にページを送ること」と「そうではないもの(インタラクション)」を分けるのは難しいところがあるが、ページ下部にある次ページを開くための矢印を押すとか、画面をスクロールして次コマに移るなどの行為は前者と考えている。フィクション世界にある事物(の表象)を操作するような行為は後者と考えている(時計の針を動かすとか棚に飾っているぬいぐるみをうごかすとか)。

*2:例えば、チャプター10において、同棲生活を始めるにあたり、誰の持ち物を優先的に棚に置くのか、どんな風に置くのか、その行為自体に意味(同棲を始める恋人気分の模倣)があるのであって、自分の物より恋人の物を優先しようがしまいが、物語にはなんら影響を与えない

*3:この演出に似たものは既存のゲームでも存在しており、例えばRPGなどの「負けイベント」と呼ばれるものはこの演出に近いものであるだろう。

*4:もう一つインタラクションさせなかった理由として「彼女自身の意思」を示すためだったという解釈はあるかもしれない。プレイヤーの行為すら干渉させないでフローレンス自身に描かせるために、あえてインタラクションを排したという考え方もできそうである

*5:ときめきメモリアル』の藤崎詩織をラスボスと呼び、恋人になることを「攻略する」とか「倒す」と呼ぶ感覚との違いを思い起こしたい

*6:この辺りは松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会,2018)の第七章の議論から発想を得ている