ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『ゲームと現実の区別が曖昧になる』論が見逃してしまいがちなこと

ビデオゲームに関わる技術が高度に発達したことで、「ゲームと現実の区別がつかない」という話が度々されることがある。こうした話がされる時というのは、主に以下の3種類の観点で語られることが多いように思う。

  1. グラフィックスや音響など、感覚に訴える表現力が現実に近い(例: どっちが実写かわかりますか?【動画】 | clicccar.com
  2. 日常生活に影響があるほどゲームに熱中してしまい、現実生活に影響を与える(例: 知られざる「ゲーム障害」の実態 - 記事 | NHK ハートネット
  3. 社会の中で大きく問題となっている事象をゲームのテーマとして扱うことで現実の解釈に影響を与える(例: 現実とゲームの関係性が揺らぐとき何が起きるか……求められるゲーム・リテラシー教育 - メディア芸術カレントコンテンツ

上記に挙げたような「現実とゲーム」の語り方を見た時に、常々わたしが感じるのは「ボタンを押すこと」があまり重要視されていないという事である。例えば『GTA』のような作品の中では、他人が乗っている自動車を無理やり強奪するプレイができる。そのシーンのグラフィックがどれだけ実写に近かったとしても、車を奪うという複雑な行為が、たった一つのボタンを押すという簡単な行為で実行されてしまう。それは果たして「現実的」なんだろうか?

「ゲームと現実の区別がつかない」という話が語られる時に、しばしば「ボタンをポチポチする」という不釣り合いな現実は、都合よく見ないようにされていることが多い。しかし、とてつもない場面が眼前に起きていて、それがどんなに迫真に迫っていようが、どんなにプレイヤーの心に強い衝撃を与えようが、それを直接的に引き起こしたのはAボタンを押すという不自然にシンプルで簡単な行為であることは、ほぼどんなゲームにも当てはまるのではないか。本稿では、この不自然さがどのように擁護できるのかというのを書いてみたいと思う。

 

ゲームにおける「入力の簡単さ」に注目する

ゲームについて語る中で「ボタンを押すこと」に注目した著作がある。批評家のさやわか氏の『僕たちのゲーム史』(星海社新書 2012)である。その中に次のような文章がある。

しかしプレイヤーがボタンを押すことで、変えられないはずのものを、「意外にも」変えることができる。これがプレイヤーにとっては新鮮な驚きであり、その驚きの体験こそがゲームの核だと言えます。

 (P13「はじめに  なぜ「ゲームの歴史」が必要なのか」より)

『僕たちのゲーム史』は「ボタンを押すと反応する」という現象をゲームにおいて変わらない特徴と捉えてゲームの歴史を見通す著作である。この「ボタンを押すと反応する」への着目には、とても思索を刺激されるところがある。

また作家のブルボン小林長嶋有)氏の『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』(筑摩書房 2009)には次の文章がある。

現実にもある「ジャンプ」という行為に必要な労力と手続きは、ゲームでは「ボタンを指で押す」という、ものすごく単純で簡単なものに置き換えられている。*1

(「22 メタルのゲームに駄作なし!」より)

こうした言葉から、私が感じるのは次のことである。「ボタンをポチポチする行為の労力はきわめて小さい。しかし、それに見合わないほどの大きな結果を引き起こすことがビデオゲームの特徴である」ということだ。この「見合わなさ」というのは、どうしても「現実的」ということを語るのに障害になりそうである。しかし、この「入力の簡単さ」がゲームにとって本質的な特徴ではないかとも感じる。ゲームで表現されるアウトプットは、ほとんど常にインプットに対して過剰である。ボタンを押すだけで爆弾が爆発したり、人が死んだり、巨大なモンスターを倒したり、世界を救ったりする。こうした結果の派手さの裏側には「ボタンを押す」という「入力の簡単さ」があることに注目したい。

 

ゲームのための行為が重いとどうなるのか

例えば、ゲームで木を切るという行為があるとしよう。一本の木を切るのに、現実のプレイヤーが全身の手足や腰を動かして汗だくにならないと切れなければ、それはとても「非ゲーム的」であると感じるだろう。これはゲームに抱く固定観念や慣習による感覚でもあるだろうが、ここにはとてもビデオゲームらしさがあると考える。ゲームがアウトプットする内容のゴージャスさにだけ着目していては、この「入力と出力の落差」は見えてこない。ゲームの入力コストが高ければ、この「入力と出力の落差」は小さくなる。これは言い換えれば入力コストの低さこそが落差を生んでいるのである。

なお、ゲームにおけるすべての入力がアウトプットに対して一定の割合でコストが低いわけではない。ここの「釣り合い」を客観的に定義することは難しいが、例えばキャラクターの移動操作における落差とジャンプ操作における落差を比べた場合、移動の方がジャンプより「入力と出力の落差」がより小さいように感じられる。ある程度退屈な操作(落差の小さい操作)を続けさせて、ここぞという場面で落差の大きな操作をプレイヤーに要求することは、ゲームプレイの演出として普通に行われていることだろう。映画でも小説でも、そうした緩急を付けるということは行われているが、入力と出力の落差を用いた「驚き」を誘発する仕組みはゲーム独特のものとしてある。

逆に言えば、いくら「現実的」だからといって、派手なアウトプットにコストの掛かる入力を求めてしまうと、ゲームがもたらす「驚き」や「意外性」を減らすことにもなる。ゲームにおける「入力の簡単さ」はこうした演出の工夫を可能にしている。*2

 

ゲームにおける「身体性」を考える

次に少し視点を変えてみよう。ゲームでボタンを押す行為は身体的な行為である。そのためか、時折、ゲームにとって身体性が大事であるという話が話題になることがある。例えば以下の記事は、タイトルがやや言い過ぎではあるが、ゲームにおける身体性の重要さについて語っているものである。

japan.cnet.com

 

身体性があるということは、そこに精神や自我があるということですよね。身体がなければ生存の危機や死というものはない。つまり世界に参加していないのです。

また次のような言及もある。

Ingress』は自分たちのことを「エージェント」と呼びますが、それはゲームという世界の中に身体ごと入り込んでいることを意味していて、そこで自分の知性をフル活用しているわけです。

身体性と知性を素朴につなげる議論の是非は一旦保留するが、こうした「ゲームにおける身体性」をよりポジティブに評価する意見が存在する。確かに、ゲームにおける身体性というのはとても重要である。例えばボタンを押したときのレスポンスの気持ち良さは、ゲームの面白さにとって重要な要素であるだろう。(それを身体性と呼ぶならば)

しかし一方で、そうした感性的な気持ち良さはゲームの特徴の一部でしかない。ストラテジーゲームやRPGなどでは、ボタンを押してから時間が経って、ようやく結果が画面に表示されることがある。そこには身体的な気持ちよさとは違う別の面白さが達成されている。どちらがより本質的なのかはわからないが、ゲームの面白さの一部は、身体と無縁なモノであるという面は重要だろう。

また、ゲームが身体性から距離をとっていることは、そのまま長所としても捉えることができる。例えば、現実のバスケットボールにおいてボールをゴールまで届くように投げる筋力がなければ、バスケットボールという競技を楽しむことは難しい。しかしバスケットボールのビデオゲームであれば、その制約はいとも簡単に乗り越えられる。そうした身体能力がなくても、バスケットボールという娯楽を(疑似的であったり、部分的かもしれないが)体験可能にさせてくれる。ゲームに身体性が従来より大きく取り込まれることで新たな面白さが生まれる反面、これまでゲームをプレイできていた人間をふるい落とすこともありうるだろう。

 

VRのリアリティと入力コスト

VRでは「現実との境界が曖昧になる」という話は頻繁に行われる。例えば日経新聞には次のような記事がある。

www.nikkei.com

この記事には次のような言葉が出てくる。

VRは現実になりつつある(略)

VRはもう一つの現実。ただ全くの別世界というよりは現実と地続きの世界と感じています

VRがもう一つの現実だと語ろうとする言説が現れるのは、やはり大きくは技術的発展がその背景にあるだろう。VR技術の向上により、従来のビデオゲームより臨場感ある世界を描くことができる。

そこに加えて、VRを現実だと語ろうとする動機には、入力にあたっての身体的コストが上がっている点もあるのではないかとわたしは考える。つまりこれまでのビデオゲームであればボタン一つやクリック一つでできていたことが、実際に腕を上げるとか、拳を握るとか、首を回して振り向くと言ったように、従来よりも高い身体的コストを払うことをVRは求める。それゆえ「VR体験はもう一つの現実だ」と言いたくなる。

しかしこうした入力コストの増加を「リアリティ」として肯定的に評価することは、ゲームの場合、単純にはできない。普通に考えて、入力コストの増加は面倒さや煩雑さに繋がる。面倒さやその行為自体が面白さに繋がるならば良いのだが(古い例であれだが『鉄騎』のような)、そうでないならば、『Half Life : Alyx』のグラビティグローブ*3のように、入力コストを下げる仕組みは長所としてしばしば評価される。それは「リアリティ」という評価とは異なる評価軸がVRでも当然あり得ることを示している。

 

「入力の簡単さ」は特定の側面を強調できる

前節では、VRでもゲームである場合、煩雑さを無くすことが肯定的に評価される場合がある事を示した。しかし、ボタンを押すような「簡単さ」は、単に操作の煩雑さや面倒さを無くすという点においてのみ長所なのだろうか。煩雑さをなくことは、もう一つ別のメリットを生み出す。それが、相対的に他の側面を強調できるというメリットである。

例えば軍隊を動かす戦略シミュレーションゲームを想像する。一個師団をボタン一つで動かせることで、戦略上の分析や判断を強調し、現実世界であれば気にしなくてはいけない様々な事務作業は捨象される。本当であれば、命令書をどのように記述するかとか、それを実行するための組織的な根回しなども必要かもしれないが、そうした現実は戦略ゲームでは重視されない。状況分析や判断という、より知的な作業がこのゲームにおいて(もしくはシミュレーションとして)重要であると強調される。

記事の冒頭で例として出した『GTA』であれば、ボタン一つで他人から車を強奪できることで、犯罪行為の「決断」を強調する。車を盗むのに入力コストが高ければ、それをするための「身体的な労苦」が部分的に表現されるかもしれない。しかし簡単な入力操作によってそこはほとんど強調されない。こうして、どんな犯罪行為にも伴うだろう「身体的な労苦」は捨象される。犯罪行為の本質は「決断」なんだということを『GTA』というゲームは図らずも強調していると言えるのかもしれない。*4

 

「入力コストの低さ」の肯定的側面

ビデオゲームを遊ぶことには、どこか「楽なことをしている」というニュアンスがある。それはボタンをポチポチするという、その行動様式に由来する。しかしその「入力コストの低さ」には様々なメリットがある。

本記事でも挙げたとおり、

  1. 入力と出力の落差が「驚き」をもたらす
  2. 入力コストが低いため制約が少なく、多くの人にとって参画しやすい
  3. 判断や思考や決断など、その行為の本質と思われる部分を強調できる

こうしたメリットは、なぜその作品がゲームでなくてはならないのかということを説明する理由にもなるだろう。「現実」と「ゲーム」が近づくことを単純に肯定的に評価しているとこうしたメリットは見逃してしまう。なぜなら決して現実に近づくような要素ではなく、現実の何かをあえて捨象することによる長所であるからだ。ゲームをプレイする行為はとかく「簡単なもの」に見られがちではあるが、むしろそこにこそゲームの醍醐味があるとも言えるのではないだろうか。

 

*1:なお、この文章の後でブルボン氏が主張していることは、本稿が主張したい事とはかなり方向性が異なる。ブルボン氏はボタンを押すことの労力の低さと、画面上で起こることとの落差を小さいものとすることをポジティブに評価し、3Dよりも2Dを支持する話をしている。

*2:追記2021.4.12。いわゆるゲームのQTEというのも、正にこの「入力と出力の落差」を用いた演出であるだろうと思う。不自然なほどに簡単な入力操作とその結果起こるイベントの派手さ、特にQTEは巨大モンスターへの「とどめ」の演出として使われるようなパターンの多さからも、そのように言えると思う。

*3:超能力のように遠くのものを引っ張ってこれるグローブ。ゲーム内で小さなオブジェクトを掴むのは意外に操作が難しかったりするが、グラビティグローブはその煩雑さを解決している。

*4:また別の例であるが、多くの格闘ゲームの必殺技はコマンド入力を求めており、通常の攻撃技よりも入力コストが高い。しかし中には必殺技もボタン一つで出すことができる作品もある。こうした作品の場合、コマンド入力を可能とする身体的な習熟やスキルよりも、技を出すタイミングなどの戦術の価値が、他の格闘ゲーム(コマンド入力が必要)より強調されていると言えるかもしれない。どちらがより「本質的に」格闘を表現しているかは別の話としてあるだろう。