ビデオゲームとイリンクスのほとり

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「超ファミコン」読み終わって思わずブログ更新してしまったよ。【コラム】ファミコン30周年に想いを寄せて

今年でファミコン誕生から30周年である。もはや自分がそんなに歳を取ってしまったのかと思わざるを得ない。30年とはもはやひとつの時代とも言える長さだ。10年単位で世相や風俗を分割するなら、既にその3回分を過ごしてしまっている。

しかし、自分自身が30年以上生きてきた事実よりも、ファミコンが既に30年前に生まれたものだということの方が遥かに感慨深い。少なくとも今の30代、40代にとって当時の生活に多大な影響を及ぼしたはずのファミコン。しかし、それを讃える報道も、評価する報道も、議論する報道も大手メディアにおいてほとんどない。ドラマ「ノーコン・キッド」の放送や書籍「超ファミコン」発売などの例はあるが、多くの場合ネットの片隅でささやかに懐かしむ程度になってしまっている。

しかし、そんな程度のものではないだろうと思う。テレビゲームは僕たちの世代にとって遊びであり、映画であり、小説であり、音楽だった。子供の頃の僕らにとって全ての文化的な活動がそこに過剰なほど一極集中していた。ゼビウスドルアーガの世界観に想像を膨らませ、スーパーマリオの裏技について語り、ドラクエ3アレフガルドに衝撃を受け、FFの音楽を耳コピして教室のオルガンで弾く。それは本当にもう一つの世界だった。ビットの奥の方に確かに存在する世界を、子供たちは旅していた。

ファミコンを知っている僕たちは最新のどのようなタイプのゲームを見ても、どこかに昔からあるゲームとの共通点を見出してしまう。別に進化していることを否定したいわけではなく、フッと頭の中でそうした懐古的な思いが宿る。もちろん、昔を知らない若い人と最新ゲームの楽しみ方が変わるわけではない。何かをよりよく理解しているわけでも、決して賢いわけでもない。しかし、確かに何かを僕たちは既に知っていて、そのことをどうしても意識せざるを得ない。

考えてみれば、この30年間、テレビゲームの世界は恐ろしいスピードで進化した。グラフィックは高精細・高密度になり、音楽は豊かな音階や音質を手にし、ゲームプレイはより親切で僕たちに寄り添うようになった。少し前のものが異常に古く感じられてしまう諸行無常ビデオゲームの世界だ。こんな体験は一度だけじゃない、30年で何回も味わってきた。とりわけプラットフォームとしてのハードが世代交代する度に、旧世代のハードは単に古くなるのではなく、寂しさや切なさと共に消えていった。もちろんファミコンもその流れの中で過去のハードとなっていった。

そんな経験を重ねることで、より一層変わらないモノも静かに着実に僕の中に蓄積していく。もちろん昨今の「スカイリム」「Call of Duty」「GTA」などの大作に投資された開発額や人材は、ファミコンのそれに比べれば遥かに巨大だ。僕がどれだけ「変わらない」と呟こうとも、現実として、物理的に大きな隔たりが厳然として存在している。しかし、それでもあえて言えるのではないか。ゲームにおける変わっていないモノが確かにあるのだと。

なぜそう言えるのか?

それは、この30年間、テレビゲームにおいて変わらないモノというのは、決してゲーム自身のことではないからだ。むしろ、それを遊ぶ僕たちこそが驚くほど変わらない。だからこそ、娯楽という神様に捧げられた供物であることの偉大さはいつまでも廃れることがない。ゲームほど僕たちは進化できない。だからこそ、かつての家庭用ゲーム機がくれた遊びの輝きはいつまでも曇らない。

30年の時を跳躍するのは、僕たちとゲームとの関係それ自体だ。おそらく30年後も、いやその先も変わっていないだろう。未来のゲームはどうなっているかと妄想する僕は、すでにそれを遊ぶと決めていかかっている点においてきっと変わっていない。それは、新しいゲームソフトの発売日を待ち望む30年前の小学生の僕となんら変わるところがない。

ある1本のゲームを楽しめなくなることよりも、発売日を楽しめなくなることの方が数倍恐ろしく悲しい。ゲームに飽くということは、発売日やクリスマスや誕生日に心躍らないということだ。ゲームがつまらなくなるということは、ゲーム自体の問題というよりも、ゲームとの関係の問題であり、引いては僕自身の問題ともなるだろう。だからこそ変わらないモノは過去への懐古であるだけでなく、常にまだ見ぬ未来へと確かにつながっている。

ファミコンよ。30年後も変わらず、僕らの視線の先には今なお新しいゲームがワクワクと共に待っている。そのゲームがどんな形であるかは、決して分からないのだけれど。