ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『デトロイト:ビカム ヒューマン』にしっくりこない理由

2018年にソニーインタラクティブ・エンタテインメントから発売された『デトロイト:ビカム ヒューマン(Detroit : Become Human)』という中々評判の良いゲームがある。この作品は、一般的にアドベンチャーゲームと呼ばれるタイプのゲームであり、いくつか提示される選択肢を選んでいくことで物語が分岐していく。アクションを巧みにこなしたり、パズルを解くようなゲームではなく、多様に分岐する物語を紡いでいき、その物語世界を体験してくことが主眼のゲームである。

 

デトロイト:ビカム ヒューマン(以下、デトロイト)』というタイトルにあるとおり、舞台は近未来のアメリカ、デトロイト。人間そっくりのアンドロイドが一般に流通している世界で、多くの家庭や職場でアンドロイドが導入されている。プレイヤーは様々な境遇にあるアンドロイドになって、選択肢を選んでいく。アンドロイドが「自我」を持ち、人間に奴隷のように扱われることに疑問を持つところから、物語は大きく展開していく。ラストは選択肢によって様々に別れるが、そこでは色んなタイプの未来、例えば人間とアンドロイドが共存する未来や人間とアンドロイドが戦争し合う未来などが描かれることになる。

 

これだけ聞くと、SFとしては非常にありふれた物語のように聞こえると思う。しかし、こんな世界設定であるにも関わらず「人間とアンドロイドの境目は何か?」という問題をほとんど『デトロイト』というゲームは突き詰めていない。そして、こここそが本作の特徴だと私は考える。*1

 

なぜ『デトロイト』が「人間とアンドロイドの境目は何か?」を掘り下げていないと私が考えるのか。それは、本作の「語り方」による。本作はアンドロイドの苦境を、人種差別問題のアナロジーとして表現しており、物語の後半は特にその色が濃くなる。ここが、本作を「人間とアンドロイドの境目は何か?」というテーマから遠ざける理由となっている。というのも、いわゆる反差別というのは「人間とは何か?」と問わないことを前提としていると考えるからだ。肌の色が何であろうと、どんな性別であろうと、どのような民族であろうと、どのような性的嗜好(志向)を持っていようと、同じ人間かを問うことなく、まず「同じ人間である」ことを前提として受け入れることから始まる。差別問題への対応の根本はそこにある。

 

そのためか、本作ではあまりにすんなりとアンドロイドが人間として扱われることが「正」とされる*2。つまり、差別への闘いとの類似性で語れば語るほどに、相対的に「でも本当にアンドロイドを人間として扱っていいのだろうか?」という問いは後退してしまう。仮にそのような疑問を持ってしまったら、人間とアンドロイドを区別(差別)することを正当化することに繋がる。つまり、「人間とアンドロイドの境目は何か?」というテーマを後退させるからこそ、アンドロイド差別を素朴に(人間同士の)差別問題としても捉えられるという構造になっているように思えるのだ。

 

この点をなぜ「しっくりこない」と思うのか。それは結局のところ主要なテーマでもある差別問題自身をも矮小化してしまうと考えるからだ。

 

アンドロイドの人間らしさを、『デトロイト』は、「言葉を喋る」「感情を表現する」「知性ある行動をする」「自分の意思を見せる」など、アンドロイドたちの「振る舞い」や「行動」によって示そうとする。『デトロイト』の提示する「人間らしさ」は、非常に行動主義的*3なのだ。そのため「では言葉を喋れない人間は人間か?感情を上手く表現できない人間は人間か?知性が低そうな人間は人間か?」という残酷すぎる問いがどうしても頭の片隅をよぎってしまう。差別との闘いはむしろこの問いから離れるところから始まる。どんな無愛想でも、冷酷でも、バカでも、「人間として生まれたからには人間」である。『デトロイト』の行動主義的な説明は、こと差別問題に関して言えば、「人間として生まれたからには人間」に匹敵するほどの説得力を持たないように思われる。それゆえ、アンドロイドに人間としての権利を認めることを、さも「正しい」ように表現しようとする『デトロイト』という作品に、どこか欺瞞めいたものを感じてしまう。

 

また『デトロイト』は、「アンドロイドも人間だ」を個人が受け入れる事と、社会や制度として整備していく事との違いに無頓着でもある。アンドロイドを人間として受け入れる個人がいることはもちろん理解できる(終盤の老刑事ハンクのように)。しかしそれはあくまで哀れみや同情などによる個人的な納得の問題でしかない。しかし、そんな個人的な納得だけが、差別への闘いの歴史を作ってきたのでは決してない。個人的な「かわいそうだから受け入れよう」だけでは、「社会が普遍的にアンドロイドを人間として受け入れるべき」という理由にはならない。あくまで「同じ人間だ」と認めるからこそ、社会は普遍的に差別を解消することに取り組んでいけるのだ。

 

このことは『デトロイト』という作品でアンドロイドたちが一体どの程度の権利を主張しようとしているのかが、あまりよく見えないというところにも現れている。人間と同等の権利を求めているのか、殴られなければそれで良いのか、不同意のセックスを拒否する権利を求めているのか、ただ「配慮」されればいいのか、バスで人間と乗る座席が区別されていることは問題ないのか、そこら辺が全く見えない。その「なんとなく自由」を求めるという曖昧さは、人間の差別問題のアナロジーで語るからこそ生じる語りの難しさである。黒人差別の比喩を多用しながら、アンドロイドが「人間と比べて限定的な権利」を主張するようにはできなかったという理由があるだろう。そのためにも、おそらく人間とアンドロイドは何が同じで何が違うのか?を突き詰めず、その主張する権利も曖昧に表現せざるを得なかったのではないだろうか。*4

 

結局のところ、『デトロイト』の物足りなさは、参照している現実社会のテーマ(差別問題)とその物語設定(人間と区別のつかないアンドロイド)がうまく噛み合っていないところにあるのではないだろうか。端的に言って「なぜ差別の問題を描きたいのにアンドロイドという設定が必要なのか?」ということに答えられていないように思うのである*5

 

【補足】

この記事を書いていて、2016年のディズニー映画『ズートピア』に、「人間」が登場していないということに改めて気がついた。『ズートピア』には、肉食動物も草食動物も様々な種類の動物が登場するのに、人間という種は出てこない。これは、人間という種が登場してしまうと、まさに「みな同じ人間なのだ」というメッセージが伝わりにくくなってしまうからではないだろうか。

 

ここからは妄想だが、例えば『デトロイト』の世界設定も、既に人間は滅びていて、そこには強者たる支配者アンドロイドと弱者たる奴隷アンドロイドがいて、その奴隷アンドロイドが権利獲得のために戦うというストーリーであれば僕も受け入れやすかったかもしれない。(仮に人間が出るとしても、人間たちは支配者アンドロイドに蹂躙され、弱い立場にいるという設定なら受け入れられるだろう) 

 

私には、『デトロイト』という作品が人間という立場の「強さ」そのものに対して思慮が足りないように思えたのかもしれない。

 

 

*1:プレイした人の中には「いや、そういうテーマを掘り下げている部分もあったんじゃない?」と疑義を呈す人もいると思う。しかし次から述べる構造的な問題がこのテーマを掘り下げさせないことになっていると私は考える。

*2:もちろん作品中のテキストとして「アンドロイドと人間を平等に扱うことが正しい」とは直接語られていない。そこはプレイヤーの選択に自由が与えられている。しかしいわゆる「グッドエンディング」に相当するより望ましいあり方が表現されていることから、その方向性を「正」と示していることは明らかだと考える。

*3:ここで、行動主義という言葉を使うのは適切でないかもしれない。人権が「生れながらにして享受すべき権利」とした場合と比較して「どう振る舞うから人間として扱われるべき」という思想が『デトロイト』にはあるのではないかを示す言葉として"行動主義”を使っている。

*4:人間以外の動物たちの権利をどこまで認めるか?というような「種差別」の問題に敷衍できる部分を『デトロイト』という作品が持っていることは否定しないが、しかしそういう議論に「なんかかわいそうだから認めるべき」程度の感情論をもたらす以上の意味を『デトロイト』は提示できていないんじゃないかと私自身は考える。

*5:別に差別問題を描きたかったわけではないのではないか?という反論もあると思うが、以下のインタビューで、製作者が「私たちはただの現実逃避ではなく、より深い体験をもたらす、私たちの暮らすこの世界と共鳴するゲームをつくりたかった」と語っていることからも、社会的かつ現実的なことを語りたいと考えていることは否定できないと思う。【ネタバレ注意!】『Detroit: Become Human』の生みの親デヴィッド・ケイジ氏によるQ&Aを公開! | PlayStation.Blog