ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームや映画を中心としたレビュー・コラム記事です。 Twitter ID: @turqu_boardgame

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任天堂の持つ「遊び捨てる」感覚の美しさについて

任天堂は多くの人に愛されているゲーム会社だ。任天堂のやることは、とにかく素晴らしくて、面白くて、新奇性があって、と過剰に褒めたくなる人もいる。最近は話題にならなくなったが、今から10年くらい前、任天堂が2007年の10月にファミコンの修理サポートを終了させるというニュースが話題になった。

初代「ファミコン」など公式修理サポート終了 - ITmedia NEWS

 

このニュースを受けて「まだサポートしてたのか?」「こんなに長く修理を受け付けているなんてすごい」「利用者思いの優しい任天堂だ」という言説が大量に現れた。こうした任天堂を讃える感覚は多少理解できるものの、個人的にはどこか違和感を感じてもいた。任天堂ビデオゲームの中には、飛び抜けてクオリティの高い作品があることは確かだと思うが、時折現れる「任天堂は時代を超えるゲームを作っている」という主張にも違和感を感じている。先程のファミコンの長期サポートなどへの言説と同じように、それもまた任天堂に対する幻想に過ぎないのではないかと思う。

 

というのも、自分にとって任天堂は「遊び捨てる」ことを強く自覚した会社であるように見えるからだ。10年も20年も遊び続けるような、そんな「大人の遊び」ではない。気まぐれで、身勝手で、飽きっぽい*1。そういう子供らしい遊び方こそが、いかにも任天堂の提示する遊びだとわたしには思えてならない。任天堂こそ「長く継続しない遊び」を提供する会社だと感じている。

 

昨年(2018年)話題になった『ニンテンドーラボ』シリーズは、その意味において典型的な任天堂らしい商品だった。今なお『ニンテンドーラボ』を楽しく遊んでいるユーザーはどれだけいるだろう。いやもちろんゼロではないだろう。しかし『スプラトゥーン2』の方がよほど、長く継続的に遊ばれているのではないか*2。だからこそ、「遊び捨てる」という観点からは、わたしにとって『スプラトゥーン』は任天堂らしくない作品である。『ニンテンドーラボ』の方が任天堂らしいと思ってしまう。これはもちろん皮肉ではないし、もはや早々に粗大ゴミとなっているであろうニンテンドーラボのトイコンたちを馬鹿にしたいのではない。むしろ逆である。よくぞここまで思い切りよく「遊び捨てる」ことを覚悟できるているものだと思う。これはすごいことだ。

 

子供のためにおもちゃを買うようになって実におもちゃというものは「遊び捨てられる」ものだと思うようになった。子供は本当に飽きっぽい。えてして飽きそうなおもちゃの方が子供の興味を引く。レゴやカプラのような大人の選定眼にかなうようなおもちゃを子供は思ったほど欲しがらない*3。やはり「長く遊ばれる」おもちゃというのは偉大だ。レゴとかはつくづく良くできている。この「長く遊べる」という価値観はやはり魅力的ではある。

 

しかし考えてみると「長く遊べる」という価値は、とても即物的だ。それはいかにも定量的で、分かりやすく、大人らしく、ハズしにくく、保守的な価値観だ。単純化すれば損したくないということでもある。プレイ時間が長い、プラットフォームが変わっても遊び続けられる、暇な時間に入り込むようにして短時間で長い期間遊び続けられる。今、ビデオゲームの世界ではこうした「長く継続的に」という価値観がかなり幅を利かせている。もちろんそれは良いことではあるのだけど、瞬間的に盛り上がり、忘れ去られるという遊びには、独特の清々しさもある。「長く遊べる」が、どこか「長く遊ばさせられる」ことでもあると感じるからだろう。

 

「遊び捨てる」ということは、別の言い方をすると「卒業する」ということである。しかしこの「卒業する」という言葉は昨今とても評判が悪い。ネットでは「大人になったからといって、好きなことから卒業しなくていいんだよ」と優しく語りかけられる。それはもちろんそうだ。わたし自身、いい大人になってもテレビゲームという遊びから卒業できないオタクである。しかし、この「卒業する」というのは悪いことばかりではないと思うのだ。卒業するところから新たに生まれてくる価値観や世界もきっとあるだろう。それはより豊かになるきっかけでもあるはずだ。いやもっと正直に言えば、「卒業する」ことが悪いことばかりではないように、「ドップリと継続し続ける」ことが良いことばかりではないと思うのだ。

 

任天堂のゲームは子供向け、だと言われることがある。しかしそれは「卒業できる」作品だということでもある。かつての『Wii Sports』(そして『1 - 2 - Switch』)には、長時間プレイすると「休憩しませんか?」とプレイを中断させるお節介な機能がある。これはきっと任天堂の持つ「遊び捨てる」「卒業する」ことへのこだわりと繋がっているのではないか。そして、このことは遊んでいない状態があるからこそ、遊びがあり得るのだいう、遊びの原理的な特徴と合致しているのではないかと少し思っている。

 

 

 

*1:遊びの「飽きる」ということについて言及されている以下の記事には大きく感銘を受けた。松永伸司×吉田寛「遊び」をめぐる、ゲームスタディーズの新潮流『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』刊行記念第1弾・「深まる」編 | かみのたね    個人的には「飽き」が新しいポジティブな価値を産む、という議論よりも、ネガティブな「飽き」がネガティブなままに価値を持つ、ということに興味がある。うまく言えないけれど。

*2:スプラトゥーン2の遊ばれ方が本当に「長い」かどうかは議論の分かれるところかもしれない。その他のオンラインゲームに比べて決して長いとは言えないし、しかし『マリオオデッセイ』よりは相対的に長く遊ばれているとも言えるだろう。ここではそのプレイ期間の長さ自体は重要ではない。

*3:おもちゃコーナーで、レゴの基本セットよりもCITYやNINJAGOシリーズのように特定のモデルを作って終わる自由度の低いタイプのレゴ商品の方が棚を多く占めていることは象徴的だと思う。