ビデオゲームとイリンクスのほとり

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課金しない人間ほど、なぜソシャゲの課金を嫌うのか?

ソシャゲの課金をためらう気持ち

スマホゲームやソーシャルゲームにおいて、課金をすることにためらってしまう気持ちがある。最近ではそんなことを感じない人も多いと思うし、もはやゲームにおいてなんらかの「課金」は当然のことになっている。

しかし私などはいまだにためらう気持ちがある。その理由について社会学者の大澤真幸氏の以下の書評を読んで思ったことがあるので、書いてみたい。(元のURLからは記事が消えているので、リンク先はWebアーカイブである。)

 

それをお金で買いますか 市場主義の限界 [著]マイケル・サンデル [訳]鬼澤忍 - 大澤真幸(社会学者) - 本の達人 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト

 

この大澤氏の長い書評は、掲載当時(2013年)にかなり話題になったので読まれた方もいると思う。NHKの番組『熱血教室』で有名になったハーバードのサンデル教授の本に対する書評である。

 

私が注目するのは、次の一文だ。

"行為の対象やそれが差し向けられている他者が、それ自体、目的になっていて、何か別のことの手段ではない、これが、規範が高級に見えるための(少なくとも)必要条件である。"

 

この具体的な例として赤ん坊を養子にする話が書かれている。

 

"ある赤ん坊を1千万円で引き取ったとする。その瞬間に、その子どもは5百万円の子どもより有用で、2千万円の子どもほどには役立たない道具として扱われたことになる。実際に、その子を働かせて、稼がせるかどうかは別に、商品と見なしたとたんにすでに潜在的に道具である。"

 

赤ん坊に、商品のように値段を付けてしまうと、赤ん坊は途端に「道具」のように感じられてしまう。それを大澤氏は次のように説く。

 

"金は、市場の中では、他の何にでも転換されうる普遍的な手段である。対象を商品と見なしたとたんに、すなわち、それを(一定量の)貨幣と等価であると判断したとたんに、「普遍的な手段」としての貨幣の性質が、その対象にも伝染する"

 

お金は汎用的な道具である。道具とは「手段」である。お金のような「普遍的な手段」よりも、「それ自体が目的」であることの方が高級に見える。

 

これは別にむずかしい話ではない。いわゆる「お金に変えられない価値」の方が、なぜか高級に見えるという話だ。それが幻想かどうかは関係ない。お金に変えられないとは、それ自体が固有で、交換不可能な価値があり、一方、交換できるとは「別にそれでなくてもいい」ということである。置き換え不可能な固有なモノの方が価値を持つのは、至極理解しやすい話だろう。

 

これはお金の話以外でもそうだろう。例えば、「他人に嫌われないために嘘をつかない人」よりも、「嘘をつくこと自体が嫌いだから嘘をつかない人」の方が高潔であるように思える。嘘をつかないことが単なる手段である人は、他人に嫌われないなら嘘をつくのかもしれない。そう考えるから「嘘をつくこと自体が嫌いな人」の方が立派に思える。 

実はソーシャルゲームの課金への嫌悪感は、こうした手段への嫌悪感があるのではないかと思っている。そしてその背後には必ず「交換できない目的の崇高さ」がある。

 

ソシャゲの課金を嫌う人は、7000円とか8000円を払ってゲームソフトを買うことの方が高級だと考える。それは、ソシャゲの課金という仕組みが、ゲームをプレイすることを私たちに「手段」だと意識させるからだ。「今、このゲームを楽しんだ」というその経験が、その場で払った1000円に相当することを、ソシャゲの課金の仕組みでは頻繁かつ強く意識させられる。意識させられるとどうなのか。一つはお金が現実を思い起こさせるという面がある。ゲームという非現実的な世界での遊びに現実味が帯びてくると、興醒めしてしまうというのはあるだろう。しかし本稿で主張したいのは、少し違う。お金は現実であるから嫌だという以上に、「手段」であるからこそ嫌なのではないか?というのが私の主張だ。

 

ソシャゲの課金を嫌う人の多くは課金してない人ではないか

ソシャゲの課金を嫌がる人の多くは、ソシャゲでの課金というものをほとんどした事がない人ではないかと私は考えている。ほとんどの人が「やらず嫌い」ではないかと思う理由の一つが、先に述べた「手段」であることを嫌うということだ。実際に課金をやってみて、それに相応の価値がないとか、コストパフォーマンスが悪いという主張は「やらず嫌い」の人にはほとんど響かない。「課金の損得」で、課金をやらないわけではないからだ。それよりも前のところで課金を避けようとしている。それは、ある種の「怯え」に近いものだと考える。

課金をすることに対する「怯え」とは、ゲームプレイの1つ1つが何円に相当するかを意識させられることが怖いということだ。課金によって、ゲームプレイに貨幣の特質である「手段である」という側面が伝染してしまうことをおそれているのである。

「ゲームで味わう楽しい30分や60分が一体何円なのか」を数字で定量化されればされるほどに、その楽しみは目的ではなく、手段としての性質を帯びてくる。それはつまり「ホントはその遊びではなくてもいい」可能性に気付き、ゲームをすることが交換可能な別の目的のための手段に堕することを怯えている。だから、課金をやりもしないのに「そんな1000円を払うなら、◯◯に使った方がいい」と言ってしまう。それは交換可能な手段だと「やる前に」みなしているからだ。「◯◯の方が得だ」というのは言い訳に過ぎない。注目すべきは「他の手段に交換可能だ」と捉えていること、それ自体なのだ。*1

 

この発想は次のような態度と通じている。本当に好きなゲームに対して「ゲームソフトの値段である7000円に相応の楽しさだったなあ」と評価することはほとんどない。逆に、そのゲームが嫌いであればあるほど、金額で評価することに抵抗がなくなる。「このゲームは1000円程度だった」とか「2000円でも高い」とか。しかし強い愛着を感じるゲームに対して「(ソフトの値段以上である)1万円の価値があった」とは微妙に言いづらい。せめて「1万円で買っても後悔しない」という言い方になる。そこには、どうしても定量化できない余地を残しておきたいという思い、まさしく「交換できない目的の崇高さ」がある。

だから、課金が嫌いな人に「ソシャゲの課金で7000円分の課金をしたら、パッケージゲームの7000円以上の楽しみが享受できるよ」とどれだけ説得しても、無駄である。決してその言葉はソシャゲの課金を食わず嫌いしている人には通じない。楽しいかどうかは関係ないからだ。ゲームプレイを聖域にしておきたいという思いから来ている感情であり、冷静かつ定量的にゲームプレイを扱い、ゲームプレイを(楽しむための)手段化することを恐れているのだ。

 

では、そうした「やらず嫌い」の人が、どのように課金することに怯えなくなるのかと言えば、それは課金に「慣れ」る以外にないだろう。慣れることによって、ソシャゲやスマホゲームの課金にも「聖域」は生じうるのだと理解することによってしか、その「やらず嫌い」は克服されることがないだろう。

 

 

(この記事は2013年8月に私が書いた以下の記事を元にリライトした記事です。)

【コラム】なぜソーシャルゲームを嫌悪するのか?そしてなぜボードゲームは人とプレイするのか?: 非電源ボードゲームで未来のゲームを妄想する

 

*1:よく廃課金していたヘビーユーザーが「ソシャゲの課金なんて無駄だった」という話がネット上に書かれたりするが、そういう話や記事を読んで溜飲を下げているのは課金などしたことない人たちではないかと思う。そしてそういう課金しない人たちはその手の話を「やっぱり課金は損なんだ」と捉えているのではなく、「私は元々そうしたソシャゲ課金で得られるものより高級な価値観に気づいていた」と捉え、楽しんでいるのではないかと思っている。なにより、そういう姿は私自身の姿でもある。