ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『デス ストランディング』はプレイする人みんなを批評家にする

2019年リリース。小島秀夫監督作品。『デス ストランディング』(以下、デススト)は、今年、発売前に最も注目されたゲームだろう。何が面白いのか分からない訳ではないのに、なかなかその魅力を言葉にする事が難しい。そんな不思議な作品であるが、個人的には傑作だと感じた。文句をつけることはいくらでもできるだろうが、それでもこんな作品を作り上げることは、なかなか余人にはできないだろう。本稿では、この作品の持つオリジナリティを他のゲームとの比較から語り、また、小島秀夫作品の特色でもあるカットシーンや演出についてゲーム作品だからこその魅力を持っているということを述べてみたいと思う。

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「表の遊び」と「裏の遊び」の逆転

『デススト』が提示する遊びというのは個々の一つ一つを見ると決して革新的というわけではない。しかし、本作は、既にどこかにあった遊びの「位置付け」を変えている。

 

具体的に見てみよう。荷物を大量に運ぶ上で何を持っていき、何を諦めるかという点は『スカイリム』(2011年)や『フォールアウト4』(2015年)などの重量制限で味わったことがある感覚だと思う人は多いだろう。また、重い荷物を左右バランスを取りながら歩くところなどは、アクションゲームで細い足場を渡る時に左右のバランスを取るミニゲーム的なギミックとして体験した感じに似ている。そして、様々なサブクエストを受注した時に、どのように目的地を巡っていけば効率的にお使いタスクを消化できるか?というのも、昨今のオープワールドゲームを遊ぶ際に似たようなことを考える場面は多い。『デススト』が特徴的なのは、そうしたこれまで「裏側の遊び」だったものが表側に「位置付け」が変わっている点である。一方で、その他のゲームでは「表側の遊び」として位置付けられる「敵を銃で撃つ」「ステルスで敵をやっつける」「車やバイクを運転する」などの行為が、『デススト』では、ほとんど表に出てきている印象がなく、この点で逆に特徴的であると言える。『デススト』は、他のゲームで一般的になっている「表側の遊び」「裏側の遊び」の感覚を逆転させたところに、そのオリジナリティがあると言えるのではないだろうか。

 

個人的に特にこの「表裏の逆転」という感覚を強く感じたのはグレネードの存在と山登りの2つである。他のゲームであれば、補助的な役割になりがちなグレネードという投擲武器が初期から中盤にかけて、ほとんどメイン武器、標準武器として位置付けられている。また山登りについては、かつて『スカイリム』をプレイしていた時に、目的地に着こうとしてちょっと急な斜面をポリゴンの引っ掛かりを探しながら無理やり登った時のことを思い出した。「『スカイリム』ってこういう遊びのゲームではないんだろうけど、この山登りってちょっと面白いな」と思ったことが印象に残っている。『デススト』では、その密かな遊びをメインの遊びとして提示してきており、梯子をギリギリ引っ掛けて無理矢理に崖を登っている時に「あ、あの裏側の遊びがメインディッシュになっている!」という驚きを感じた*1

 

このように『デススト』というのは、ビデオゲームをよく遊ぶ人ほど、不思議な逆転の感覚を与えてくれる批評的な作品ではないかと思う。提示された遊びを単に享受させるだけではなく「こういう所が意外に面白いのではないか」という「面白さを発見する面白さ」をプレイヤーに仕掛けてきている。面白いことそれ自体に意外性(こんなことが面白いんだ!)があるところが面白いゲームなのである。

 

「ゲームの人」か?「映画の人」か?

小島秀夫というゲーム作家を表現するのに、「ゲームの人」か?「映画の人」か?という議論がある。メタルギアシリーズでもそうだが、特に『デススト』ではカットシーンが長いという印象があるため「小島秀夫は映画を作りたいのか?」とやや揶揄を込めて言われることがある。一方で、「やはり小島秀夫はゲームの人なんだ」という言われ方もする。本作もそうだが、目新しく見えるゲームデザインや遊びを作品に盛り込んでくることも確かであり、また先の「映画の人だ」という評価へのカウンターとして「ゲームの人だ」という語りはなされることがある*2

 

どちらの言い分にも理はあると思うが、個人的にはその中間とも言える「小島秀夫はゲーム演出の人だ」という印象が私にはある。それはどういうことか。小島秀夫のゲームでは、明らかにカットシーンが「ご褒美」として機能している面がある。苦労して何かを成し遂げると、そのリワードとしてカットシーンがプレイヤーに与えられる。この90年代から2000年代のゲーム業界の文化の香りを『デススト』には感じる。しかし、こうしたカットシーンがご褒美になるという文化は、『ウィッチャー3』(2015年)あたりで、完全に息の根を止められたような印象がある。昨今、美麗なカットシーンはプレイヤーにとって特に嬉しいものではなく、「カットシーンはご褒美」という考え方は古臭いと思える。

 

しかし、『デススト』には、その「カットシーンはご褒美」を今なお成立させるだけの変則的な搦め手が仕込まれていると考える。それはノーマン・リーダスマッツ・ミケルセンギレルモ・デル・トロと言った豪華な出演者たちにやや奇妙な振る舞いをさせるという部分であり、また、あの世と通信をするという突飛なSF的設定をベースとした不可思議なストーリーテリングである。こうした他の映画やTVドラマでは味わえないような「破綻した面白さ」を仕込むことで、一見すると古臭い「ご褒美」をギリギリに成立させている。『デススト』という物語に仮に設定矛盾や理屈に合わないところがあったとしても、それは単純に非難すべきところというよりも、ゲームだから許される「突飛さ」をむしろ積極的に取り入れていったところだと言えるだろう。『デススト』は気取るために狂ったフリをしているのではなく、狂った設定や狂った演出によって、むしろギリギリにゲームを成立させているのである。プライベートルームでのノーマン・リーダスの数々の珍妙で突飛な振る舞いに世界観や物語上の理屈などは存在しない。これらの要素は他の映画や小説やTVドラマであれば、意味不明な悪ふざけとしてしか認識されないかもしれない。しかしゲームであればそれがささやかな遊びとして受け取られ、突飛であることによって、ゲームのプレイヤーにとって小さなご褒美として成り立つのである。*3

 

ゲームプレイのストレスを浄化する幸福な既視感

『デススト』には数々の印象的な場面やビジュアルがある。多くの人が強い感慨を抱いたであろう場面の一つに、ポートノットシティ(K3)到着直前のシティを一望できる場面がある。ポートノットシティ到着クエストの前にはバイクを入手するという流れがあり、そのバイクによってゲームのスピード感は増す。しかし、ポートノットシティへの到着にあたっては、逆にそのバイクの存在が厄介になる*4。そのため、無理やりにバイクでポートノットシティに到着する場合でも、バイクを乗り捨てて徒歩でポートノットシティに到着する場合でも、どちらの場合であっても、ポートノットシティを一望できる丘にまで到着した時には、プレイヤーはある種の感慨を抱くようになっている。どんなルートでも困難とその克服を感じさせる仕組みになっているからだ。

 

小島秀夫の作るカットシーンには、ポートノットシティを一望する時のような「ありがちだけど幸福なデジャブ」というものがある。バイクがぶつかりそうになったフラジャイルが瞬時に消えてしまう序盤のシーンや、泥沼から起き上がったクリフォードが無言でガイコツ兵に攻撃指示を与えるシーンや、ヒッグスが両手を広げて空中に浮かぶシーンなど、どんな場面もどこかで既に見たことがあるような、そういう既視感がある。しかしそうした既視感は単に「凡庸だ」となるのではない。というのも、プレイヤーはあくまでゲームプレイを通して、そうしたカットシーンや演出を味わうからだ。プレイ時間が長くなればなるほどに、おそらく反復されるカットシーンはスキップされる事が多いだろう。しかし時々、ふとした気まぐれで「今回のカイラル通信の接続シーンはスキップせずに見ようかな」と思うことがある。この「気まぐれ」は、ゲームプレイによって醸成されている。『デススト』が単に見るだけのエンターテインメントであれば、そういう気まぐれが起こる事はない。ゲームプレイによってプレイヤーが特定のマインドセットを抱くからこそ、そうしたベタな演出やカットシーンも、ほどよく幸せなデジャブ体験として成立するのだ。

 

前節では、小島秀夫の作るカットシーンや演出の「突飛さ」を強調したが、一方で小島演出にはどこかで見たような「ベタさ」にも満ちている。しかしそれがプレイヤーにとって幸福なのである。ベタであるからこそ安心して受け取れる。ゲームプレイによって受けたストレスを癒してくれたり、よく知っているものを期待通りに提供してくれるものとして、『デススト』のカットシーンは極めて機能的に作用している。

 

小島秀夫の作るカットシーンや演出は、以上のような両極端の要素を抱えている。「突飛さ」と「ベタさ」である。これらの要素は単品のカットシーンや演出として見たときには、「悪ふざけ」や「凡庸さ」としてしか捉えられないかもしれない。しかしゲームプレイを通して悪ふざけはご褒美になり、凡庸さは癒しになるのではないだろうか。逆に言えば、小島秀夫が仮に映画を撮ったとしてその出来を勝手に想像して不安に思うのは、ゲームプレイを伴わない映像作品が「悪ふざけ」と「凡庸さ」に満ちてしまうのではないかという危惧があるからだろう。

 

傑作としての『デス ストランディング

小島秀夫のゲームは、演出によって際立っている。これはこれまでの小島秀夫作品からも言える事だろう。『デススト』がこれまでの小島秀夫作品の中でも傑作と言える出来だと思うのは、ゲームプレイと演出の噛み合わせが非常に上手くいった例だと思うからである。ゲームメカニクスが剥き出しになったようなゲームプレイが、本作を単なるカットシーン偏重のゲームとして捉えることを抑制している。一つ一つは既存のゲームメカニクスと似ているように見えても、総体としては特異に見えるゲームメカニクス(裏表の逆転)が強く本作の存在感を主張している。「カットシーンが長すぎる」という批判はあっても、『メタルギアソリッド4』(2008年)のような「カットシーンばかりのゲーム」などと批判されることはおそらくないだろう。

 

加えて、カットシーンや演出がそこに至るまでのゲームプレイへのご褒美もしくは癒しとして適度に作用している。 もちろん比較的退屈なカットシーンを長く見させられるという印象を終盤に感じる人もいるかもしれない。それでも、物語の最も印象的なシーンだけを、あくまでゲームプレイへのご褒美や癒しとして適切なバランスで提供するという事が本作は比較的高いレベルで達成されているように思う。過去作で言えば、『メタルギアソリッド4』や『メタルギアソリッド5』(2015年)ではカットシーンの量に比べて、ゲームプレイの不足を感じさせるものであったと私は捉えている。もし見ることに特化した物語を伝えることを第一義にするならば、サムの亡き妻ルーシーとの別れや思い出を語る場面がドキュメントだけでなく、カットシーンとしてあってもよかっただろう。しかし、それらがバッサリとカットされていることは、本作のカットシーンとゲームプレイのバランスとして良い方に働いていると考える。サムとルーシーとの関係が全くカットシーンとしては描かれず、唯一写真とドキュメントだけで表現されるのは、開発コストの制約からなのか、意図的な演出なのかは分からない。ただ、ルーシーとの別れはサムにとって最も鮮烈なトラウマであるだろうから、それをあまり語らないのは、逆に不自然のような気もする。このように「見る物語」として評価した時に『デススト』には様々な舌足らずさがある。しかし、(単に見る物語としてでなく)ゲームとして見たときには非常に良いバランスになっていると考える。

 

「物語としてどうか」「ゲームメカニクスとしてどうか」というように分析的(?)な批評スタイルでそれぞれを分けて評価してしまうと、今ひとつ『デススト』の魅力というの見えにくくなる。もちろん『デススト』という作品の魅力の不思議さゆえに、要素を小分けにして分析したくなることもよく分かる。しかし、我々がそういう批評家になってしまうというのは、『デススト』を評する上で、逆に罠なのかもしれないと思うのだ。

 

『デス ストランディング』は奇跡のような作品だ。おそらく小島秀夫の持つ強運がもたらした偶然の産物という側面はあるものと想像する。しかし奇跡だろうと偶然だろうと、独立後一発目の作品で、これだけのものを世に出したことへの賛辞はどれだけしても、し過ぎということはないと思う。そういう小島秀夫自身の境遇という文脈の面白さを置いておいたとしても、作品が我々みんなを批評家としてしまい、またそれによって何が面白いのかがかえって不思議に感じられる、そんな「面白さの迷宮」に我々を誘うという点においては、唯一無二のゲームではないだろうか。

 

 

 

*1:山登りを「表側の遊び」として提示したゲームは既に『ゼルダの伝説 BotW』がある。しかしゼルダの場合はかなりしっかりと山登りがゲーム化されており、物理エンジンとポリゴンのイタズラでギリギリ登れてしまう、みたいな遊びがより堂々と表現されている点は『デススト』の特徴なのではないかと思う。

*2:『デス・ストランディング』試論――かくて荒野は意味で満たされた。死の大地を歩くことを意義あるものにした、オープンワールドのゲームデザイン - ファミ通.com

*3:本作を社会情勢に対する真面目な問題提起として捉えることにはあまり価値がないと思っている。「繋がり」というテーマに薄っぺらさを感じる人は多いと思うが、下記のインタビュー記事などを読むと、小島秀夫は繋がりの鬱陶しさにも言及しており、そこまで「繋がり」一辺倒ではないとも思う。しかし、例えば、サムの接触恐怖症は最後には克服されるような表現がされており、こういうところが小島秀夫の思想の甘さとも感じられる。より現代的に接触恐怖症を描くならば、その症状を抱えたまま、引きこもりとして生きていっても良いじゃないか?という面を強調する描き方もあったはずである。そういう風には描けない保守性が、小島秀夫のポピュラリティーとも言えるし、限界でもあるかなと個人的には思う。

『デス・ストランディング』は他者と距離を置くことで人にやさしくなれるゲーム。小島秀夫監督インタビュー - ファミ通.com

*4:岩場でBT出現というエリアがあるため、バイクでの踏破が少し難しく、おそらく多くの人がここでBTに捕まるという洗礼を受けることになる。